半月と硝子のブイ

so-net 『半月と硝子のブイ』の再開

『レオン』〜黒いサングラスの子連れ狼は牛乳が好き

当時劇場公開版を観て、思い切ってDVD買い(当時は高かったのょ!)その後4-5回は観て、完全版の廉価版が発売され出して直ぐ手に入れて3-4回は観て。

 

ゴットファーザー』や『パルプ・フィクション』や、色んな意味でエポックな映画が彗星の如く現れ、その時代時代で世界中の各地でヒトビトを魅了する。好き嫌いは別として多岐に渡り影響を与えたりする。そしていつしか、その映画"以前・以降"なんて表現の物差しに挙げられたりする。
しいては"本作も例に漏れず"とワタシは思ったりする。
レオン以降の少女と "子連れ狼" 的な作品(意味通じない世代も多いのかしらん)や "孤独な暗殺者の迷い逡巡" 的な作品の数、そして脚本内容の展開を鑑みればそう思う。

 

然しながら、個人的には脚本や演出や照明やカメラワークや編集の全てに於いて、(超ド級に金や時間をかけても怠惰な作品も世の中には在るのに対し) 監督の当時の若さとやる気(世界に打って出る前向き感みたいな)が大爆発な本作品。それらを勢い余ってやり過ぎる事なく全体をセンスで帳尻合わした力量は脱帽である。

同監督のその後の何倍も費用かけた作品より、初期の『サブウェイ』や本作には前述のセンスと未だイヤラシクはないチカラが感じられる。

特に画面トーンの統一と場面場面の緩急や。そして何より、レオンの黒とマチルダの赤、牛乳の白や観葉植物の緑…それらの所謂原色が知らず知らず、観終えて尚も私達の脳裏に残像として思い浮かぶ筈だ。その手腕にワタシは拍手したい。
タランティーノとは又異なる意味で監督自身が大の映画好きなんだろうと思われる引用場面も前半導入部から多々観られ、そんな気付きも面白い。
キャスティングの秀逸さ=ハマり具合も拍手×拍手だ。

主演のレオン役ジャン・レノとマチルダナタリー・ポートマンは他に類をみない位に存在自体が唯一無二にキャラ立ちしていた。

併し、そう…初見から年月が過ぎようと忘れられないのが所謂敵役の警部役ゲイリー・オールドマンだ。

以降、他の作品で彼に逢うと、本作でマチルダのパパを仕留めに行った際にピルケースに用意していたカラフルな薬を顔を真上に向けて飲む姿が、必ず思い出されてならない。劇場で初めてあの演技を観た時の衝撃は未だに覚えている。


やはり本作が大好きなパートナーの前で、未だに時々ゲイリーの真似をして微妙な笑いをとっているワタシだ。あまりしょっちゅうやっていると、終いには "もういいや" なんて捨て台詞で投げ捨てられるが…(苦笑)

(余談になるが、G.オールドマンは"シド&ナンシー"での成り切り演技もかなり素晴らしかったが、ワタシの中では本作刑事がダントツピカ1かな。)

 


何を観ようか迷ったら難しい事は考えずに、良い意味でチープで可愛い変化球の純愛映画を観返してみよう。


アナタもカラフルな錠剤を、顔を真上にして、首筋張って、息んでゴックンと飲んでごらん!

コップに注いだ牛乳でもいいよ!


きっと真っ直ぐ純な気持ちに成れるから。

 

 

時代が変わり、当作品の脚本設定が道徳的に不適切だとかなんとか…世間がどう批判対象を連ね様がワタシの評価感覚にはあまり関係ない。
んな事言い出したら、殺したり犯したり壊したり裏切ったり…不道徳な映画ばっかりじゃないか⁉︎って事だよ、いつも言いたいのは。

批判するのは簡単だ。

槍玉に挙げられるのは、それだけ影響大な魅力が有るからこそだ。


不道徳な要素あっての映画にこそ、ワタシは道徳かどうかは知らないが何か大切な事を教わって来た訳だから!

 

『レオン』…少なくともワタシにとっては、己の"汚れ具合"を省みる…そんな尺度の、大切な映画の一つなのでした。

 

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『クレイマー,クレイマー』〜フレンチトーストの味

フレンチトーストを作る時に思い出した作品。実際に我が身に同じ事が起きてからは観る機会が無い。"機会を設けてない"が正確かな。

 

この世には、明るい離婚の経験者もいるだろう。

ワタシは現在は或る意味では幸せだが、離婚当時は人生最悪の暗雲たる砂漠に立ち尽くした。

何年間か泥流に呑まれ、息をするのも苦しい波が来た時もあった。

 


島に渡った。

本土に帰った。

街を離れ、地方で手に職を就けた。

その世界で取れる資格は順に取り、8年半を堪えて独立した。

こんなに時が早く過ぎ去ったのは、怪我や借金や創作活動を一旦諦める決心からの"悔しさ"に依る謂わば"背水の陣"であったからだろう。

ストイックなまでに全ての照準を仕事に向けてきた。

 

子供は離れて暮らしているが、優しい娘だからずっと仲良く、泣いたり笑ったり怒ったりしてくれている。一言で感謝しかない。元気で居てくれたらそれでいい。それしかない。実は難しいことだから。

 


悩んだ事は過去も多々あったが、あの闇には二度と迷いたくはない。

本作品『クレイマー、クレイマー』のテーマでもある"離婚"とは、そう生優しいものではない。予想や気構えなんてものを、遥かに超える深い淵だ。

少なくともワタシにはそうだった。

色々な事をそれまでになく深く考えさせられた。特に己をとことん見つめざるを得ずだった。何につけ他人のせいにしていたら前に進めないからだ。

 


考えに考えて紆余曲折あって16年という月日が過ぎ、今こうして働けているし、食べ物を美味いと思えるし、空の雲や鳥を眺め、風に季節を感じたりして元気に居られる。

本作も又観てみようかなとも思ったりしている。

否、今更観ないかな…

 

 

どんな映画でも未経験と経験後ではかなり印象が違うだろうし、事の次第は時代や一つ一つの現実とは異なるものであろう。

この題名、つまり二人のクレイマーを想う時、ワタシはコトバには尽くせない荒れた野に放り出されてしまう。


その様な作品を含めて、この世に映画という文化が在ることに改めて感謝する。

気を抜いて楽に観ようとして逆に撃たれて驚くこともあれば、期待して観ても呆れて時間ばかり気にしたりすることもあるだろう。
けれど、誰もが"限られた人生の残り時間"の中で、娯楽を求めて後、それまでの思考や感覚を遥かに越えて深く突き刺さる作品に時として出逢えたら…
真剣に向き合えばこそ、それは素晴らしく代え難い財産に成ると思ったりする。

 

大切なものは兎角、今現在の目には見えない。

 

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『フラガール』〜松雪さん御免なさい

年度末に向かいどの仕事現場も忙しい。例年の如く今月からワタシも他業者の現場に助っ人に出ている。請けている現場は納期的に余裕が出来たのであまり苛々せずに。常用扱いの助っ人で勤しんでいる訳だ。

車で片道1.5hの道すがら或る看板が目についた。肌もあらわな女性達がフラを踊っている。みんな笑顔だ…この寒空の下、違和感。(笑) しかし其の横を通り過ぎるから毎日眺めてしまう。で、この映画を思い出したんだ。

ところがワタシときたら、何故か松雪さんの顔が脳裏を掠めて、昔を思い出してなんだか複雑な気持ちになった。

 

先ず本作と云えば蒼井優なんだが。岩井俊二作品に出ていた初期の彼女は、それまでに無いタイプに感じ、かなり気持ち的に応援していた。

九州出身女子ってなんかわかるんだな…おっとり話す様に見えて、内心に秘めた強さ頑固さが芯にあってさ。

あと、しずちゃんも頑張っていたよな。

それから松雪さんだ。マツユキさん…う〜む、ワタシはどうしても口の中が苦くなる様な、ストレートに言ってしまえば苦手な容姿の女性。ある頃からだ。かなり苦手になってしまったのだ。

 

 

昔、17〜26歳頃迄の約10年間、東京で本気で音楽を演っていた。バイトで生活の糧を得ながら、時に二つのバンドを掛け持ちし、しかしながら客入りが良い晩にしても取り分は打ち上げで呑んだら消えてしまう〜所謂売れないバンドマンであった。今回、その音の内容は割愛しよう。

当時、世間はバブル絶頂期。 学歴の無いワタシでさえアルバイトが嫌になったり都合が合わなければ直ぐ辞めて、極端な話は翌日には違う仕事を見つけられる、そんな時代がたしかにあったのだ。今では信じがたい。 フロムAやアルバイトニュース等、求人誌の厚みは日に日に増して1.5〜2センチ位はあった事さえ記憶している。

 

ワタシは単発で日当の良い肉体労働を中心に流れていたのだが、辛い経験も多かった。然し順応性が幸いしたのか職人的な業種に於いては重宝がられたと思う。測量や設備や鉄筋や解体や木工所や染色工場や携わった職種は20種近い。ところが、安全靴まで購入して臨んだ土建屋の手元仕事で、ついつい調子に乗り尾骶骨付近に怪我をしてしまった。

それが理由か判らないが、そこから身体のバランスが崩れたらしくアチコチが直ぐ痛んだり疲れやすくなってしまった。

肝心のバンド活動…否、普通の生活自体にも支障を来す為、肉体労働はもう難しかった。なので知人の紹介から版下デザインの会社で働き出した。初めてのデスクワークだった。

青森県出身の寺山修司似の社長にも目をかけて頂き、何度も社員になりなさいと勧めて頂いたが、頑なにアルバイトで通した。全部で4年間位だったか。日当にしての給金は以前より下がったが、肉体的には楽で仕方なく、時給も半年に一回50円づつ位上がるのだった。

そこで月一催される呑み会での食事の全てが貧乏な若者にとっては生唾モノで、初めて口に入れた食物も多かった。

社員の何人かは時々LIVEにも来てくれたし、仕事帰りによく食事を奢って貰ったり。

見習い試用期間の女の子と仲良くなり勢いでホテルにシケ込み、翌日同じ服装で出勤していたら先ず部長格の先輩に説教され、再び社長に呼ばれ笑いながら諭された。「君が外で何をしようが勝手だが、このケースはよくない。皆に影響がある。わからない様にしたまえ。」みたいな。

結局その娘は直ぐ辞めてしまい、その後暫く周りからネタ的に嫌味を言われ続けたりしたのも、今となっては懐かしい思い出だ。

 


(再び)然し!その辺りから或る一人の先輩女史からのワタシに対する執拗なイジメが始まり、それは或る事情からワタシが辞める直前迄長く続いた。

デスクとしては直角に背を向け合う様な位置関係、声のトーン、顔の輪郭など未だに覚えてしまつている。

味方になってくれた優しい女先輩も居たが直に結婚退職され、他の男達はキャリアの長い彼女に対しては仕方なく一目置く感じで上手くとりなっていた。

イジメ行為の内容は職業上専門的な話にもなるし、文字にするのも憚れる稚拙で幼稚な内容もあるし、なので割愛する。

然し、当時は気にしない様に気にしない様にと努めても、逆に丁寧に問いただしたり、何回か抗議したとしても、陰湿で根暗い仕業は終わる事はなかった。

私は怒りを越えて、気持ち悪ささえ感じながら…生活と好きな音楽を続ける為には、此の"肉体的には楽な仕事を出来るだけ続けなくては"と耐えていた。たしか当時の彼女にも"絶対に辞めない方がいいよ"と言われていた。私の身体も心配してくれての発言だったろうし、将来の展望も見えない霧中の彼氏に不安からの発言でもあっただろう。

 

そして、其の仕事は出来ても心が歪んだ女史が何処となく松雪さん似(70点の松雪さん位?)だったのだ!

 

 

誰でも、その人にはその人なりの事情があろう。深い悩みも誰しもが抱えて抱えながら、その日その日を暮らしているーそんなもんだろう。

 

でも、70点の松雪さんにハッキリ一度だけ給湯室で二人になった際に"悪いけどキミみたいなヒト、私ダメなんだよね〜"って言われた時、ワタシには何かが視えた気がした。

"醜いな。小さいな。あぁこんなオトナにはなりたく無いな"と思ったのを覚えている。故にワタシは未だ若く、コドモだったのだろう。青く、激しく、痩せて髪の長い、粋がったコドモだったのだろう。

その若くてヤンチャだったワタシだって、ある日帰宅したら同棲してた彼女が荷物まとめて消えた後に置き手紙とカラのカラーボックス一つ…なんて笑うに笑えない経験を其の時期にしていて(笑)

けれど他人に陰湿な形で鉾先は向けない。当たり前だ。悲しくなるだけだから。

因果応報。"他人にした行いは巡り巡って形を変えて必ず返って来るかも知れない"ーその真理を教えてくれているのが、映画であるのかも知れないではないか…

 

マそれからというもの、松雪さんや松雪さん似の方を見かけるとワタシの身体に悪寒が走るのでした。

以降、現在に至るまで全国アチコチ彷徨って色んな仕事もして来たが、デスクワーク的な室内仕事は一切務めていない。トラウマかしらん…と不図思ったりする。少し。

 


松雪さん御免なさい。

 

松雪さんファンの方にも御免なさい。

 

あと、映画本編に全く関係無い話をここまで読んで憤慨している方にも御免なさい。

 

でも、この苦手意識を改善する努力をワタシしませんから。(苦笑)

デスクは自宅で座れりゃそれでいい。

自分には切り株が丁度よい。

 

 

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ボッシュしゃっは、ベーコンろざりお

映画『謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス』を配信動画を契約する以前、某レンタル店の棚に並んだ途端に借りて観た。日本語表記ではボッシュ或いはボッス等と書かれてきたが、本作に於いてはボス。正確な発音を知らないからワタシの中ではボッシュ

ヒエロニムス・ボッシュ

ブリューゲルと比較引き合いに挙げられるケースが多いが個人的には何故だろうボッシュに惹かれる。 既に廃刊になり久しい厚さ12ミリ程の日本編集版の画集を昔、お茶の水古書店で2000円代で見つけた時は喜びのあまり、静まり返った店内で思わずガッツポーズした覚えがある。

しかし当画家との出逢いは遡る事数十年昔… 己の高校時代にピストルズが"勝手にしやがれ"を発表し、ワタシも当然の如く学園祭では"アナーキー・イン・ザUK"等を演りながら、一方でレインボーの(元ディープパープルのG.であった)リッチー・ブラックモア以外の激しいメンバーチェンジを気にしつつ、やっぱり"ツェッペリンが一番だよ"と知った口をきき、クリムゾンもウェイツも未だ知らない10代後半の青い頃の事である。

 

 

ある日、軽音部なんかには入らず完全なる帰宅部だったF君と仲良くなった。彼は木造二階建てアパートの一階にお姉さんと暮らしていた。隣の世帯に母親が暮らしていた。その日、彼から"僕は中近東地域とか興味があってペルシャ語とか独自に勉強しているんだ"等、当時ワタシには浮かびもしなかった幾つかの話を聴いてかなりショックを受けた記憶がある。学内のクラス内だけでは計り知れない彼の独自性、同い年ながら興味の鉾先の違いに驚き、多いに刺激を受けたのだった。

その彼の部屋で初めて聴いたブラックサバスの一枚のLPジャケットがなんとブリューゲルの絵の一部だったのだ。編集版だったと思う。Fはかなりの曲者、見た目ならラーメンズの片割れ(長髪爆発頭の方)みたいな奴だった。

初めて聴いたサバスのサウンド、他とは完全に異なる引き摺る様なリフの応酬、そのミディアムテンポに一発でノックアウトされた。合間って、ワタシはその日からジャケットの絵が誰の筆によるものなのか気になって仕方なく…

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そこから7-8年程だったか、が過ぎて次の出逢いが高円寺のカビ臭いアパートの自室だ。

D.ホッパー出演作品を追ってレンタルビデオ(VHS)を借りていたある日、ホッパーがアラン・スミシー名義で自ら監督主演した作品"ハートに火をつけて(別題"バックトラック")を見つけて喜び勇んで鑑賞。

そして劇中、なんと彼が自宅で生演でアルトサックスを吹くシーンで暗闇の背後の壁にあった絵画がなんとボッシュだったのだ。 たしか…薄暗い部屋で彼がおもむろに吹くサックスの短いながら咽び泣く様な音色が鳴り響き、背後にオーカーや黒に近い緑や点在する赤の妖しいボッシュの絵画…そのシーンで背中に電気が走った。 スイッチが入り、どうしてもこの二人の作家の他の作品を観たいし!少しでも人物を知りたいし!と成り後日、急ぎお茶の水に馳せ参じた。

インターネットなんて知らない、パソコンなんて持ってない時代だった。

 

 

ちなみに彼の一枚一枚は或る意味で大作、複雑な構成と精密さと色の深み、その制作に投じた時間を鑑みたらば超大作なのだが、それぞれの作品自体はその割に小さいことに驚いてしまう。そして寡作も寡作。 こんなに少ない作品数で後世まで、世界中で刺激を与え続けている画家も或る意味珍しいのではないだろうか。 手法的な話題としては、この時代に彼の様なピンク=桃色を多く使う(下の色と混色或いは塗り重ねて作り出す)者は居ただろうか…?

彼の描く題材や絵柄ばかりが注目され話題に上がりがちだが、彼の技術に於ける"基本の王道"と、逆に"挑戦的な冒険"も眼を見張るものがあるとワタシは思っている。

 

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そして、ボッシュやベーコンは踏み絵でもあった様に思う。ワタシの歴史上では。

例えば過去に交際した女史は皆それぞれ絵画なり音楽なり映画なり各々の好みをしかと保っていたが、知り合って初期の会話の中で画家の話等になった場合にゴッホゴーギャンピカソが大好きと云う方は何故か居なかった。他意なく語ればパウル・クレーシャガールが好きと言われれば、ワタシも広く様々な画家の様々な絵が好きだし(ワタシはどの様な作者に対しても作品一つ一つで好みが激しく別れるから)誰か一人の名を上げる訳ではなく。然し、抽象ならカンディンスキーとか、時期ならウィーン世紀末辺りがお気に入りなんて耳にしたらば、こちらも多少は声のトーンも上がるというもの。ソコは自分も好きだし"イイよね!"とばかりに話を盛り上げたりした筈だ。

 

ところが時が過ぎ、互いに食や趣味趣向や癖の部分が表出してくる頃、何かの拍子にワタシがボッシュフランシス・ベーコンを敬愛する胸を話したりすれば… お察しの通り大概の方が引いてしまう。先ず大概が知らない。知らなくて画集など覗けば、それはもうドン引きものだ。画集を開いたとて、精々パラパラと飛ばしてゆく瞳は完全に幕が降りかけていた様に思う。"凄いね"とか"面白い"と口にした輩も中には居たが、後には間を置いて必ずや "ワタシは駄目だなぁ"が付いてきた。

それでもそんな他愛もないやり取りが互いの人生を左右したり、男女の仲が壊れてゆく訳ではなかったし、それはその時々に於いては大した問題ではなかったのかも知れない。なかったかも知れないが不図思う。

あの時点で判っていたのかも知れない…

長く苦楽を共にし、深淵を共に覗き込む互いではなかろうと。

 

 

先述ボッシュとベーコンは踏み絵と述べた。

人間の"七つの大罪"どころか、有りとあらゆる愚かな行いをこれでもかと擬人化擬態化して描き込んだ彼の絵画を視て、我々はコレは何だろう?何に見える?と考えたりする。精密な何かを前にした時に我々はつい、全体から感じる匂いとは又別に頭であれこれと考えてしまう。

だからボッシュ絵画は云うなればロールシャッハ・テストだとこじ付けよう。

対してベーコンの絵画の殆どは、どデカいキャンバスに対象は大概が一人もしくは1匹や1肉の塊。そして何がどう描かれているのか不明な、精密には程遠く、時に捏ねたり引き伸ばしたり削り取った筆跡からは、我々は視てはいけない何か深い淵を覗いてしまったかの怖れ(畏れ)さえ感じてしまう。一人の人間や一つの対象の、決して抗えない本質や本性、業みたいなものをえぐり出したかの絵。その悪い夢を見ているかのベーコン呪縛の暗さ重さの向こうに、我々は時として逆説的な神みたいな何かを感じていたりはしないだろうか…

だからベーコン絵画は試される絵踏みではなく、畏怖をもって祈ってしまうロザリオだとこじ付けよう。

 

だから今回の題は"ヒエロニムス・ボッシュ=ロールシャッハ・テスト&フランシス・ベーコン=ロザリオ"。 略して"ボッシュしゃっは、ベーコンろざりお"(…ってことでお後はよろしい?)

 

ちなみにー

現在まで10年続いているパートナーはワタシから初めて両者の作品を知り、"好きだなあ"と初めて宣(のたま)う輩である。

淵を幾つか視て来た人だから、そうなのかも知れないと想っている。

 

ボッシュしゃっは、ベーコンろざりお。

ボッシュしゃっは、ベーコンろざりお。

 

呪文みたいだ。

 

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『バスキア』〜南十字星は見ている

我の青い春に重なり、好きな俳優達が目白押し。誰も彼もがあざとくはないサービス満点の演技をしていて、自分にとっては別枠的に南十字星みたいな作品。

監督ジュリアン・シュナーベルは自らが画家であり、作品の好き嫌いを越えたアプローチの迫力は相当なもの。現役画家だけあって劇中の作品群は設定上のバスキア作品から展覧会場に掲げられた当時のアーティスト作品から全ての監修レベルは非常に高い。

中でもバスキアが初めのアトリエで制作途中の物や画材等、他の展示会場の設営風景等、あまりのリアルさは関係者なら感心以外は無い考証だ。

それは又、監督がバスキアと同時代を生きたアーティストであり、ライバルであり何より友であったからこそだと思った。

 

 

彼ジャン・ミシェル・バスキアが亡くなった後位に、我が国ではバブル絶頂期のPARCOがキース・ヘリングを宣伝に使用し、街中でやたら見かける時代…10代の私は実家を出て都会の片隅の暗いアパートに暮らし暗中模索していた。

当時の私はドアーズとジョン・レノンに心酔し、バンドを演りながら、劇画や絵を描いていた。

成就した恋の初めのデートでバスキアの真似をした訳ではないが(流石にテーブル上ではなかったが)白い皿の上でソースを使い箸で絵を描いて見せたら、彼女に「育ちがバレるからやめてよー」と眉間に皺寄せられ笑われた記憶がある。(苦笑)

 


年月が経ち、現在暮らす地方から六本木ヒルズで催されたバスキア展も観に行ったが、誇大宣伝の割に作品の展示形態や照明も扱いも粗雑ぞんざいで悲しかった。

それは決して彼の作品の"ストリート性へのリスペクトからの演出"ではなかった。ただ単にテナント料金が高く、宣伝や企画ばかりに重きを置き、肝心の展示にプロフェッショナルさが足りなさ過ぎるとしか感じられず。係員のお姉さん達はトウシロも良い処で、賑わう土産物コーナー?とレジにおおわらわでしかなく。あんな最低な美術展は初めてだった。ついでに、やはり前澤は嫌いだナと思い溜息が出た。

一言、この国に於けるブームが哀しいばかりだった。

 

その日、最上階から見下ろした都会のどこまでも灰色の建造物の海も、それなりに歳も重ねてしまった私には溜息しかなく。

過ぎた何十年かの時間と、繰り返される人間の愚かさ等を想った。彼が描こうとしたものは何だったのか…

 

彼の夭折や、ジャンルは違えどジミヘンやジャニスやモリソンやマーク・ボランや魔の27歳辺りに星に成った先人を想ったりした。

あの時代に己の才を出し切り、散って逝った彼らを未だに何処かで意識している我が居て…下りるエレベーターの大混雑の中でなんだか目頭が熱かったものだ。何故だろう..."都会に来るのはコレが最後かな…"と思っていた。

私は17〜27、40〜43歳と二つの離れた時期、東京で暮らしていた。合わせて14年間に及ぶ東京暮らしだったが、とうに離れ久しい。なのにあの日、何故か六本木ヒルズで私の東京卒業式は済まされた気がしている。

それに気づいていたのか、何を考えていたのだろうか、横に居た現パートナーは黙ってくれていた。

 


こんなレビューは"映画とは関係ない"と云えばそれまで。だが、本作品には或る懸命に生きた者の哀しさと輝きが有り、その光と影は残された私たちにとって貴重な鏡なのではないかと感じてしまう。

仕事や、家族や、夢見や、自惚れや、失恋や、失敗や、堕落や… 云うなれば少なからず"人生の浮き沈み"を体感した者ならば、本作品を観て損は無いだろうと思う。

芸術に絡めとられ、出口が無いかの暗闇を体感していない者であっても、懸命に生きたジャンという純粋な男が問いかけてくれよう。

 

君は懸命に生きてきたのか?

 

君は懸命に生きているか?

 

 

南十字星がこちらを見つめている。

 

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『ディア・ハンター』〜"This is this."

初見は20代前半。以降10年に一度位の頻度で観たくなる。長尺の為、そしてラストへ向かう深淵を心して、そう安易には観返す踏ん切りがつかない。けれど自分の中の映画ベスト10の7〜10位辺りに必ず君臨する作品だ。

出兵前に皆で山へ鹿撃ちに行く。
軟派なカザールに対しデニーロが強い口調で告げる。
諭しているというより、己に言い聴かすかの重い呟きだ。

"This is this"だったか…

 

それは、その後の展開を一言で表していた台詞だった様に思う。
それは、話の上では戦時下に於ける運命の歯車の無常さや無情さであり。
然し、いつの時代、何処の国、どんな者に於いても少なからず重なることでもあり。

 

本作に於いて"ロシアンルーレット"は脚本の道具や具材であり、戦争映画として観た時にはー人間性まで破壊してしまうーその恐ろしさを戦場場面ではなく教えてくれた。映画史に残る名場面であろう。

そして本作を何回か観ていると、私たち皆がルーレットは言い過ぎかも知れないが、時に抗えない(運命という名の)ゲーム盤上に居ることに思い当たる。

"運命"という言葉は命に運を被せて記す。

コレを"命を運ぶ"と読めば是、私たち一人一人の人生が当てはまる筈だ。生きることは命を運んでいることに他ならない。

 

デニーロはハンターであり。ウォーケンもハンターであり。私たちもハンターなのである。

相手を撃つのか、自らを撃つのか。

引き金を引くにしても、引かないにしても、皆が己の人生のハンターなのだと思う。

This is this. 弾は一発なのだ。

命も一つ。

 

(ちなみに本作の公開待たずしてカザール本人は他界している皮肉。真実、命を懸けて主役達を引き立てる傍に徹した事に成る。)

 

 

初見より数十年が過ぎて尚、そのシーンの美しい景色や、才能溢れる俳優達の表情や台詞と共に、斯く言うデニーロの声が強く脳裏に刻まれている。


どなたかもレビューで書かれていたが、ダラダラと気怠るさもある前半は、畳み掛ける後半の為にある。解ってはいても何度も観返す度にこの長尺さは正直堪える。
それに初見時は己が若くて青かった為、ラストの"ゴット・オブ・ブレス"を誰彼ともなく歌い出すシーンがどうしても理解出来なかった。
また、何回か観て改めて気付いたシーンも多い。

だが、本作を名画と言わずにいては罪だろう。
そして"本作のデニーロ観ずして彼を語るべからず"だろう。ゴットファーザーとは違った意味で丁寧な演技をしているし、俳優人生で正に頂点に向かう昇り坂にある彼、身体も表情も引き締まった彼、私には彼が輝いて見える。

 

映画の神が居たならば、その神とやらが"降りてきていたのだろうナ"とさえ感じる本作に於いてのデニーロやウォーケン。
彼らの表情と共に、きっと私の中で一生残っているだろうと思う"This is this"。

 

人生の分岐点で迷ったら、この場面を思い出してきた様に思う。

 

そして今、ここにこうしてとりあえず居るのだろう。

 

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『レスラー』〜明日のミッキー

釜の底に居た低迷期に初鑑賞。当時、映画館で観る金も時間も無く、ひたすらレンタル店の棚に並ぶのを待って観た。

心に響いた。

 

あれから10数年の年月が過ぎ、改めて鑑賞。当時とはまた違った感想も随所に感じながらも、やはり胸の奥の方にゴングが響いた。

以前観た際は、主演のミッキー・ロークが別れた娘と久方に会い会話するシーンに涙が溢れて困ったものだった。

勿論、立場や関係性があまりにも己のそれと作品が重なるものだったからかも知れない。

そして、ミッキーのハリウッド初期の華々しい時期の作品から殆どを観てきたからでもあっただろう。

彼はネット内では多くの場所で(或る意味愛も込めて)乱暴な書き方で "長らくハリウッドから干されていた" 等と記されている。たしかにコレまた敬愛するデニス・ホッパーとは又少し異なる経緯でアメリカから遠ざかっていた時期があったのも明白だった。

その頃のチョイ役含め、どの作品でもなかなか味のある彼らしい演技を魅せてくれていたのだが、本作は実に何十年振り。待望の主演であった。

当初の彼は艶っぽいいなせな、女性を惑わし悪ぶりが似合うキザな俳優であった。しかし何処か、捨てられた子犬の様な決して憎めない瞳をしていた。好きな俳優として彼の出演作も追ってきたりした。

ところが本作で現れた彼に私は息を飲んだのだったー

 

話の内容、脚本はどう考えても彼を想定し彼の為に書き上げたかのものであったから、私は彼の長年の紆余曲折を忍ばせる風貌の変化も併せて、痛く感銘を受けざる得なかったのだ。

目の前の画面の中に映る彼は、まさしく元人気レスラーであり、盛りを過ぎた満身創痍で、しかしそれでも這いつくばる様に生き抜いていた。

 

本作を観ながらいつしか私は、打たれても打たれても立ち上がる矢吹ジョーを思い出していた。

あの漫画の最後のコマは忘れもしない。

ジョーは闘いの末、コーナーの折りたたみ椅子に座り、"真っ白"に成っていった。

彼が死んでしまったのか否か…読者側一人一人にエンディングの解釈は委ねられている。

幼い頃は其処がヤケに気になったものだが、すっかりオッサンになった今は"其処は大切ではない"と知っている。

 

本作でも同様の終局場面であった。

解釈はいつだって受け取る側の自由である。この場合は観る側の私達の独自で良いのであり、正解など無いに等しい。

正解を求め過ぎれば見失うものが大きかったりするのは世の常であろう。

つまりその時の解釈は、其処までの自分たち一人一人の経験に関わってくる訳だ。

その者の"生き方が解釈する"のだから。

 

 

 

 

我が家の中、私の席の横の棚の一部は、古新聞記事や冊子誌面の切り抜きや頁を乱暴に破り取ったものが溜まっている。

時間が許す際にいつでも気が向いたら、適当にチョイスして読む魂胆。

それで先日、読書感想か新刊案内かのどなたかのコラム記事が心に残った。プロレスに関する小説の紹介だったかも知れない。記事は写メを撮り、新聞は料理後のフライパン等の油取り紙としての置き場所に移した。

読んでいる内に無性に『レスラー』を観返したくなった〜本作を10数年ぶりに観返した訳はそんな筋書きだったのだ。

記事自体は下記の様である。

 

上手くはいかない。

総て思う様になんて事は運ばないのが人生。
"よりどころ" を必要として、誰もがギリギリの覆面を被っている。

そして、自ら足元のリングで真っ向から闘う事をヨシとした時…


もしこれから先、過去の自分が長い時間をかけてでも強く願った道とは全く異なる別の道を歩く事を引き受けたとしても…
その者が、いつも一所懸命に生きてきたならば…

今まで生きて視てきた景色や、場面や、経験してきた出来事が、きっとー

きっと、その者の心を支えてくれるだろう。

(読み易くする為に一部文体は変えさせて頂いた)

 

本作の中でミッキーは、不器用でも "一所懸命に生きる" その姿を晒してくれた。

矢吹ジョーも同じ、無様なまでに晒してくれた。

ジョーは燃え尽きて、真っ白になってしまった。

けれど私の内側、あなたの内側で生きている筈だ。

『レスラー』でのミッキーも生きている。

そんな映画だ。

 

 

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