半月と硝子のブイ

so-net 『半月と硝子のブイ』の再開

『レスラー』〜明日のミッキー

釜の底に居た低迷期に初鑑賞。当時、映画館で観る金も時間も無く、ひたすらレンタル店の棚に並ぶのを待って観た。

心に響いた。

 

あれから10数年の年月が過ぎ、改めて鑑賞。当時とはまた違った感想も随所に感じながらも、やはり胸の奥の方にゴングが響いた。

以前観た際は、主演のミッキー・ロークが別れた娘と久方に会い会話するシーンに涙が溢れて困ったものだった。

勿論、立場や関係性があまりにも己のそれと作品が重なるものだったからかも知れない。

そして、ミッキーのハリウッド初期の華々しい時期の作品から殆どを観てきたからでもあっただろう。

彼はネット内では多くの場所で(或る意味愛も込めて)乱暴な書き方で "長らくハリウッドから干されていた" 等と記されている。たしかにコレまた敬愛するデニス・ホッパーとは又少し異なる経緯でアメリカから遠ざかっていた時期があったのも明白だった。

その頃のチョイ役含め、どの作品でもなかなか味のある彼らしい演技を魅せてくれていたのだが、本作は実に何十年振り。待望の主演であった。

当初の彼は艶っぽいいなせな、女性を惑わし悪ぶりが似合うキザな俳優であった。しかし何処か、捨てられた子犬の様な決して憎めない瞳をしていた。好きな俳優として彼の出演作も追ってきたりした。

ところが本作で現れた彼に私は息を飲んだのだったー

 

話の内容、脚本はどう考えても彼を想定し彼の為に書き上げたかのものであったから、私は彼の長年の紆余曲折を忍ばせる風貌の変化も併せて、痛く感銘を受けざる得なかったのだ。

目の前の画面の中に映る彼は、まさしく元人気レスラーであり、盛りを過ぎた満身創痍で、しかしそれでも這いつくばる様に生き抜いていた。

 

本作を観ながらいつしか私は、打たれても打たれても立ち上がる矢吹ジョーを思い出していた。

あの漫画の最後のコマは忘れもしない。

ジョーは闘いの末、コーナーの折りたたみ椅子に座り、"真っ白"に成っていった。

彼が死んでしまったのか否か…読者側一人一人にエンディングの解釈は委ねられている。

幼い頃は其処がヤケに気になったものだが、すっかりオッサンになった今は"其処は大切ではない"と知っている。

 

本作でも同様の終局場面であった。

解釈はいつだって受け取る側の自由である。この場合は観る側の私達の独自で良いのであり、正解など無いに等しい。

正解を求め過ぎれば見失うものが大きかったりするのは世の常であろう。

つまりその時の解釈は、其処までの自分たち一人一人の経験に関わってくる訳だ。

その者の"生き方が解釈する"のだから。

 

 

 

 

我が家の中、私の席の横の棚の一部は、古新聞記事や冊子誌面の切り抜きや頁を乱暴に破り取ったものが溜まっている。

時間が許す際にいつでも気が向いたら、適当にチョイスして読む魂胆。

それで先日、読書感想か新刊案内かのどなたかのコラム記事が心に残った。プロレスに関する小説の紹介だったかも知れない。記事は写メを撮り、新聞は料理後のフライパン等の油取り紙としての置き場所に移した。

読んでいる内に無性に『レスラー』を観返したくなった〜本作を10数年ぶりに観返した訳はそんな筋書きだったのだ。

記事自体は下記の様である。

 

上手くはいかない。

総て思う様になんて事は運ばないのが人生。
"よりどころ" を必要として、誰もがギリギリの覆面を被っている。

そして、自ら足元のリングで真っ向から闘う事をヨシとした時…


もしこれから先、過去の自分が長い時間をかけてでも強く願った道とは全く異なる別の道を歩く事を引き受けたとしても…
その者が、いつも一所懸命に生きてきたならば…

今まで生きて視てきた景色や、場面や、経験してきた出来事が、きっとー

きっと、その者の心を支えてくれるだろう。

(読み易くする為に一部文体は変えさせて頂いた)

 

本作の中でミッキーは、不器用でも "一所懸命に生きる" その姿を晒してくれた。

矢吹ジョーも同じ、無様なまでに晒してくれた。

ジョーは燃え尽きて、真っ白になってしまった。

けれど私の内側、あなたの内側で生きている筈だ。

『レスラー』でのミッキーも生きている。

そんな映画だ。

 

 

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