友部正人に "6月の雨の夜、チルチルミチルは" という好きな歌がある。
美しく切ないながら楽しいメロディに乗せて、彼のどことなく音程のズレた様な朴訥な声が、哀しい…そう、悲しく"刹那過ぎる内容"を歌いあげる。
以前より幾つかのアップをYouTubeで観聴き可能だ。中でも個人的にはバックバンドがパスカルズの演奏バージョンが気に入っている。
彼らの謂わば"現代的なちんドン(ジンタ)演奏"は何処となく切なくて、チープで面白い。正直、予定調和から外れない我が国のポップスとやらより、遥かに素晴らしいと思う。
バンマスのロケット松が率いる彼ら彼女ら大所帯の奏でるサウンドには"或る昇華"の様な盛り上がりを感じざるを得ず。
そして、友部正人が唄うこの歌の内容にも、とても合っていると思う。
私は大抵この動画を一人で観る(聴く)のだが、なんてことはない。理由は単純だ。
内心、平常心で居られなくなる自分を知っているからである。言うなれば、表情や態度に全く感情を出さずに観る(聴く)自信が未だ無いからである。
それは、何十年と云う長い時間が過ぎようが変わらない、変われない、"奥底に在る確かな感覚"とでもいうか…
サビのクライマックスでは次の様に唄われる。
"知らないことで まんまるなのに
知ると 欠けてしまうものがある"
*
生きていると自分一人ではどうにも出来ない、直ぐにも後にも変えられない問題にぶつかる事がある。
大抵、その壁にはタイムリミットが有る。
時は、1分1秒と時は止まってはくれないから。
だから、その時にどうしようもなければ、後々になって一瞬立ち止まり振り返っても、もうどうにもならない場合がある。
時として、消えたものは現れない。
居なくなってしまった者は、二度と生き返ることがない。
飼っていた虫や魚や、家族だった犬や猫もだ。
喧嘩してから又仲良くなった友人もだ。
昔、叱ってくれた祖父や優しかった祖母も。
好き合った人も。
唯、見送ることしか出来ない。
"さよならだけが人生か"
そう書いたのは太宰だったか?
6月は我の誕生月だ。
大概、ジメジメと湿度が高く鬱陶しい。正直、好きな季節ではない。
そんな中での梅雨の晴れ間、空がなんとなく高く感じられる陽気の日がある。
紫陽花が綺麗だなとか、カタツムリが喜んでいるぞとか、カラスがやたら煩いなァ→子作りの時期なのかとか…毎年似た様な事を思ったりもして。
『六月の雨の夜、チルチルミチルは』
この歌を聴いた後の感覚、それは梅雨の最中に立ち止まり、不図遠くに想いを馳せる様な感覚とでも云うのか…
私はこれまで幾度も地団駄を踏み、幾度も抗いながら来たような気もするけれど、
或る大切な場面場面で結局は、唯、棒の様に突っ立って、見送ることしか出来なかった様な気がする。
さよならを、ちゃんと言えない場合も多かったかも知れない。
だから…
"見届ける" 為にも、懸命に生きようと思ったりする。