半月と硝子のブイ

so-net 『半月と硝子のブイ』の再開

『天国の日々』〜マリックのマジック

或る一つの選択。

その歯車が回り出したら、もう元には戻れない。

幾ら悔いても取り返しは付かず。

その選択に悪魔の様な悪意が無かったとしても、人は人を、人の心を弄んではいけないー

実はそんな重いテーマを、何という美しい映像と少女を語り部に置くことで、まるで緻密な筆致の絵巻物でも魅せられた様な感慨を与えてくれる作品を観た。


テレンス・マリック監督の『天国の日々』長編2作目となる1978年の映画である。いずれ必ず観なくては〜と思いながら長い年月、後回しにしてきた作品の一つだった。

さて、いざ観終えた時、深い溜め息をついたのは何故だろう…

あらすじは他の方があちこちで語っているので私はいつも通り勝手きままに私感を連ねよう。

 

先ず、観た多くの方が言われる通り、映像の美しさは類を見ない程である。

それはミレーやワイエスの絵画を彷彿とさせ、淡い光や自然の揺らめきが贅沢な程に、画面に溢れ出すかの様でもあった。 

人物や木々や建造物の配置。特に構図も、色彩も、まさしく上記画家を崇拝していたのだろうか。前半は時に、動く絵画を作り上げた如くであった。ワイエスそのもののカットも随所に見られ、監督であろう其の趣向=狙いを感じとれたりもした。

 

各人の細かい感情の揺れ動きや初々しい演技。台詞は長々とコトバを羅列はしない。むしろ選び抜いた短い会話のやり取りにはリアリティが感じられた。

ストーリーを合間合間に語る狂言回し的な位置にいる妹役の語り部。彼女の存在位置は過酷さや悲しい結末を和らげ、寓話的な引導の役目がとても素晴らしいと思った。

 

なんと本作の20年後に発表された"シン・レッド・ライン"。劇場で観た時に感じたマリック監督の自然描写に感嘆した。切り取り方の妙や、切替の閃きはやはり秀逸であり、独特なリズムがあった。

その間(マ)というか、あえて言うなれば其処には "コトバ無き饒舌さ" があった。

その間を飽きるとするか、観ながらにして瞼閉じるかに思い巡らすか… その違いで本作の好き嫌いが別れる処でもあろうと思う。

後に撮られた"ツリー・オブ・ライフ"では私の琴線を震わす感動は足りなかった。ショーン・ペンもブラピも好きな俳優なのに、喩えば上記の間があざとく感じられ、美しい風景や素晴らしい演技を目の前にしながら、技術を魅せられている様な饒舌さを感じてしまったのだ。

 


映画はテーマが崇高なら響くのでもなく、好きな上手い俳優が演じていれば響くのでもなく、費用や時間を費やせば良くなるワケではない。

逆にそのどれも充してなくても、二度と忘れられない作品が存在してたりするものだ。

それは他の芸術に於いても同じ事であろうかー

 


しかしながら私が先ず驚いたのは、敬愛する俳優の一人今は亡きサム・シェパードの若さ。

悪意に無関係に生きてきたが、余命幾許も無い陰のある若く品のある農場主を演じている。

なんと彼の事実上の大作デビューだったらしい。いやはやファンなのに知らなかった。

 


彼は自らが短編や脚本を書く人間だけあって、役処を知り尽くしている。どの映画でも余分な表情も、派手な動きも作らない。本作でも同様だ。

数々の戦争映画の指揮官役等の彼ではなく、マコノヒー主演の"MAD"や(誰もが好む内容ではないが)隠れたB級良品" コールド・バレット"でのサムの演技=その存在自体が素晴らしいと私は惚れ込んでいる。

やはり余分な表情も動作もしない。なのに深い哀しみや幾多の過去を語る眼差し、立ち姿、あぁ…やはり私は唯彼の大ファンなだけなのかも知れないな…

要はその彼独特の演技が既にデビュー作で発揮されていたのだな〜と感慨深かったのだ。

 


 


もとい映画の題名の出処だが旧約聖書からだそうで。

初まりは妹役の語りから。そして最後もである。

つまりこれは彼女の回想を、映像として紡いだ話であろうか。

天国の日々"を彼女が思い返しているのかも知れない…

 

キーキー娘と揶揄いながら相手をしてくれた兄と、身寄りなき者が預けられる寄宿者にいずれは自らを捨てる兄の恋人と偽姉妹として生きた日々。

過酷な風来でも、時に厳しく時に優しく包んでくれた自然や、三人で助け合って食べてきた日々。

財産や土地はあれど、孤独な農場主 "花をあげたら一生大切にする人" と、偽姉と兄と四人での暮らし。

"決して明かしてはならない秘密" を隠したまま、然し初めて知る衣食住満ち足りた日々。

 

登場人物の誰もが心の中に、不安や不満を抱えていたとしても、いつか振り返る時には…麦の穂揺れる黄金色に輝く日々が其処にはあったのかも知れない。

その麦の穂は、観ている私達一人一人の心の中にもきっと、少なからず揺れているのだろう。

振り返ることが出来るのは生きた証。

亡くなった男二人には、それが出来ない。

 

人の心を弄ぶ企み(行い)をした結果が、予定調和的な結末=『天国の日々』の終わり を呼ぶ。

敵対に位置する男達二人は亡くなる。

偽姉は着飾ったドレスに鞄姿で列車に乗り、その日々と決別する。

それはまるで新しい時代の象徴でもあり、女性のしたたかさや強さを表しているかのシーンだ。

対して妹役は辛い労働の中知り合った(やはり身寄りの無い)女を"大切な親友"と位置付け、朝ぼらけに二人で脱走を図り、風は強いであろう何処かへ宛なく旅立つ…

 

本作は分かり易い寓話でもあり、長編の詩の様でもあり。

けれど私はきっと文字など書かない(もしかしたら書けない)妹役が、胸の内で呟いた回想記を、美しい映像の魔法で聴かされた…そんな感を覚えたのでした。

 

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『座頭市』〜落ち葉は風を恨まない

勝新は別格である。

パンツにマリ○ァナやコ○インの話じゃあない。

「悪名」シリーズは先に自害した田宮ではなく彼が居たから成り立つ。
刑事物でも何でも彼は彼、きっと全てがアドリブな勝新
そこに、ひたすら"The 勝新"が居るのだ。

 

やはり"勝新と云えば座頭市"と思う輩は多いと思うが、実は私もその一人に他ならない。出演作を色々観ても好みの問題かも知れないが、座頭市の匂いの立ち方が一番だと思う。

 

シリーズの中でも三船との一騎打ちも格別だが、他の座頭市フリーキーがなんと評価しようとも、シリーズ最後の『座頭市』が私は一番好みだ。
第一娯楽味わい的に観やすい。

 

脇役の蟹江敬三内田裕也ジョー山中陣内孝則も、そして片岡鶴太郎もみんなみんな良き良き味わいを出し切っている。ハマり役、適材適所の配役と思われる。

中でもマドンナ的な女親分の菩薩=樋口可南子の色気はなんなんだ〜である。


昔、私は彼女の若き頃の篠山紀信撮影の写真集をドキドキしながらアルバイト代で買い求めた。
夜な夜な随分とお世話になった10代後半を思い出す。(照笑)

彼女と座頭市の風呂場での絡みを観た時、私は真面目な話、大人の女性の色気とはこの様に匂い立ち、目眩を呼ぶのかとため息をついたものだ。
それこそ菩薩の御姿である。
本作初めて観たのは20代だったか…未だ青かった己をしみじみと思い出す。


然し、しかし!
本作で一番の記憶残りは、流れ者の緒形拳なのだ。
"落ち葉は枝を恨まない"だったか…違ったか…彼の台詞だ。
彼の語りや立ち居振る舞い、飄々とした姿は、演出を超えて素晴らしかった筈だ。
だからこそ主役の勝新が生きたし、脇役の牢仲間の鶴太郎や老いた三木のり平の"生き方"が物語の中から立ってくるし、解り易い陣内と内田と勝新の実息の対立が浮かび上がってくる。

 

緒形役の人生も又、市の人生と重なる"孤独の礎"が有り、たしかにそれが切ない迄に交差するから…
だから、観ている我々は彼らの終わり=別れ方が読めるだけに "期待出来ない期待"をしてしまう。
これこそが「座頭市」の醍醐味かも知れない。

 

大盤振る舞い。
お決まりの大団円。
敵味方共にある陰日向。
その隙間に、勝新と緒形。
この二人の組み合わせ、配役は唯一本作のみであろう。

 


永遠の旅の途中で瞽(現代は禁語か…)の市が、優しさと刀を振るう…
それはシリーズ全体の常套と知りつつも、たまに観返したくなる味わいが本作にはあると私は思う秋深まる今日この頃。


"落ち葉は風を恨まない"


皆さま、潔く生きましょう^_^

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NICK CAVE のドキュメンタリーを観て

ニック・ケイブ
トム・ウェイツ
レナード・コーエン
(七変化的な発声で)デビッド・ボウイ
etc. 

彼等の低音ボーカルが好みだ。

彼等は皆が内省的な消化を、時にプライベートごとドラマチックに、そして創作の上では其々独歩で築いてきた人たちだと思う。
所謂売れ線メジャーからは一線を引き、分かり易さや見た目を一番に求めるリスナーをさておき、作品の深さや完成度だけを追求し続けてきたと思う。

その辺りはある意味で歴史や文学や映画や、つまりは彼等の音楽以外の凡ゆる事象を知れば知る程に、そして悦んだり打ちひしがれたりの経験振幅を広く積む程に、理解は深まると共に受ける感動も大きくなってゆく。

何故なら彼等は広義的な意味での"ロック音楽という形を選んで表現している"に他ならず。表出させてくる音や言葉はそれぞれ異なれど、偉大な詩人として共通のパルスを発してくれるのだ。

 


或る意味で美しいメロディや時に迫り来るグルーブを、寓話的な歌詞を、独り聴き入る時…それが(たとえ思い込みに他ならなくとも)"我のこと"して捉えられた瞬間で、人は重なる想いに溢れて感動に震えてしまう。

 

ニック・ケイブに『 The One That I've Been Waiting For?』という曲がある。終盤12小節ほどだがたった1回だけ出てくるメロディがある。そこで次の様なコトバが歌われている。

O we will know,won't we?

The stars will explode in the sky

O but they don't,do they?

Stars have their moment and then they die

 

私はいつの頃からかこの曲のこの部分を聴くと他人には聴こえない溜息をつく。否、深呼吸して息を止める様に耳を澄ます場合もあるかも知れない。

いずれにせよ以前の記事『釜の底』で書いた"底から見上げていた夜空"を思い出すのだ。一瞬でその時の気持ち、その頃の自分に出会う。怖いほどに一瞬で。

それは切ないとか、悲しいとか、楽しいなんて言葉では説明出来ない、多色混じり合った或る感動でもあろう。

だから私はこの曲を"いつでも"は聴けない。大切だから、心して聴く曲に位置する。

 

 

何を観ても何を聴いても、感じ方は私達各々の過去の歩みがそうさせるのだとするならば…例えば彼の音楽を聴いて内側が震えるのは、聴いた私の歩んできた過去の歴史に響き、共鳴していると云えるのかも知れない。

その共鳴の先か、上の方からか、例えば劇中でケイブが云う"神のようなもの"が見ているのかも知れない…と不図思うのだ。

神のようなものは時に私たちを突き放す。突き放して落とし込める。

そして時に安らぎを与え、見えなかった事や物を見せてくれる。

しかし又直ぐに見えなくなるように…


"存在"は解釈や感じ方で変わる。
彼等が音楽を通して外に表出させてきた(させている)何かとは、色々な"神のようなもの"ではないだろうか…

 

劇中、ケイブが一番怖れることは"記憶がなくなること"だと答える場面がある。
時に人は辛い体験を片時は忘れないと前に進みにくいもの。なのに彼ら真摯なアーティストは総てから目を逸らさず、何度も噛み砕き、昇華させる為にエネルギーを注ぐ。
この撮影の後に彼は最愛の息子を事故で亡くす。劇中で一緒にピザを食べていた彼だと思う。
そして彼はまた作品に昇華する。

 

勇気が要る事だ。
自分の未だ未だ甘さに閉口。彼の音を前に、時に目を閉じて平伏してしまう。

素晴らしいドキュメンタリーを魅せて頂いた。

コーエンもボウイも逝ってしまった今、私は今後もニック・ケイブに陰ながらエールを送りたいと思う。

 

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釜の底 3/3 (『赤目四十八瀧心中未遂』に想う)

(2/3からのつづき)

何年続けたのだろう…

建設現場のスラブ上で転び錆びた釘を踏み抜いて放っていたら赤紫に腫れ上がり、手術の為に入院する羽目になった。

2年程が過ぎた頃だったか、原因不明の利き手の小指下側面の血管に瘤が出来る病気になり掌が自由に動かせなくなってしまい、検査続きの末に手術した。あの時は利き腕全体の麻酔だったから生活の何をするにも困り果てた。

現場に出れば、そこは納期に追われ捲る鉄筋屋と型枠大工の一色触発の戦場だった。あの緊張感、あのハードさは経験した者にしか決して解らない。

男なら一度はあの世界に身を投じて耐えてみるのも良いかと思う。人々が何気なく使う施設や建造物は、似たり寄ったりはあれど、総てあの一色即発の闘いの上に出来上がってゆく。

その事を、"頭ではなく身体で知ることは大切な事"かも知れないと、時が過ぎた今でも思う。当時の自分が働いていた環境を思えば大概の辛さは乗り越えられよう。

彼処で働いていた者たち皆が、何かしら背負いながらだった筈だ。黙って手足を動かして、必死に働いていた。誰もの眼は鋭かったし、ルールを守らない輩は直ぐ切られた。

当時の現場職人の必死さに比べたら、今現在周りに関わる若者達の働く姿勢なんて話に成らないし、正直言って比較も出来ない。第一、「必死にならなきゃいけないですか?」と逆に冷静に言われそうだ(苦笑)

 

閑話休題。しかし当時は度々重なる問題に気が滅入り、仕事以外では段々とアパートに引き篭もる様になってしまった私。

働いて泥の様に疲れてもなかなか寝付けず、ついには不眠症と成り。あまりに辛いから内科で相談して、睡眠導入剤を処方された。が次第に効かなくなり、アルコールの量ばかり増える一方で、食べ物の味はどん分からなくなっていった。私は元来食べる事が大好きだから、食べても美味しく感じない事はかなり苦しい事態だった。

 

数年の間には一寸した出逢いもあったし、何人かの女性とも付き合ってみたりはした。しかし心が底の方から震える事はなく、当時の私に優しくしてくれた方には申し訳ない話だが、きっと私は閉じていて…常に上の空だった気がしている。閉じていたくせに他人の優しさや肌の温もりだけを欲していたのだろう。 

借金と、私ら両親の問題に巻き込まれ辛い立場に居る娘と、何より己を賭ける"生き方"を未だ見つけていないー要はまるで自信の無い自分。そんな自分ばかりに覆われて、結局は総てが上の空で過ごしていた気がする。

 

それでも自暴自棄にならなかったのではなく。挫けなかったのではなく。

素直に育ってくれている娘との年に1-2度の触れ合いや、唯一信頼し切れる友K.との触れ合いを頼りに、自分自身に言い聞かせながら生きていた。何回か消えてしまおうかとの思いに囚われたり…挫けながらだったけれど、私はどうにか底を生き抜いたのだった。

 

 

あれから10数年の月日が経ち、現在も前を向いて歩んで居られるのは、正しく当時の私を見放さずにさり気なく接してくれた娘と親友の存在があったからこそであり。

もう一つ…暗闇の向こうに私が"見ていた(見ようとしていた?)何か"の存在があったからだと思えて仕方ない。


"それでも生きるんだ。這いつくばって、汗や涙や泥まみれで、みっともなくとも、はしたなくみじめでも、どんな迷路でも、歩くんだ。やめちゃいけない。ギリギリでもいいんだ。命は捨てちゃいけない…"

そんな手助けを教えてくれた車谷長吉作品は或る磁針であり、或る指矩だ。直喩ではない文体の語りから、逆説的に、私のギリギリの底のラインを押し留めてくれた気がするのだ。

 

 

さて、本題に記した作品『赤目四十八瀧〜』の"匂い"なのだが…
"臭い"と書いた方が良いかも知れない位の"匂い"は、何なのだろうか…

私はいつか何処かで、知っている気がしてならないのだ。

 


或る底辺に蠢き、静かにもがきながら生きる人々を描きながら。


茹る夏の強い陽射しによって出来た寧ろ濃い陽陰。


揮発し、漂いながら、観る者に目眩を与えてくるかの様だ。

 

墜ちた場所でもがいた経験。

運命の罠に導かれる様に流れてしまった覚え。

あなたに、そんな"釜の底"に居た経験があるならば、この映画を観てあなたは静かに唸るかも知れない。

 

この"匂い" 知ってる と。

 

 

匂い立つ小説。

匂い立つ映画。

匂い立つ輩。

…最近なかなか出逢えてない。

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釜の底 2/3(『赤目四十八瀧心中未遂』に想う)

あの時代の私は… 大多数の赤の他人に紛れ、埋もれまいと必死にもがきながら、我が人生最大の(否、最低の)孤独を痛感していた。

世間ではバブル崩壊後の迷走した世相の中、派遣会社なるものが乱立し始め、来るべき老齢社会に向けてホームや関係施設他バリアフリーや薬局とかコンビニ迄敷地内に備えたマンション等の建築ラッシュであった。

もしかしたら私は自ら、その様な場所で汗をながして働く道を課したのかも知れない。没個性的に手足を動かして金を稼ぐ世界に身を置きたかったのかも知れない。

そうでもしないと、それまでの"なんとなく生きて来てしまった"歩みを、新たに、改めての歩みに変えることは出来ないと考えた筈だ。

それは言うなれば"決別"だったと今となっては思う。至極、自分勝手な、自分一人が変わる為の、"決別"だったと。

17歳からダラダラと幾つもの職場を転々としてきた自分や、10数年の本当に色々あった結婚生活や、身寄りの無い田舎へ移住してのゼロからの暮らしや、つまりはこの先を生きるには"過去から離れなければならない"と思い込んだのだ。

次のステップを前向きに生きるには…きっと物質的な実際の距離や、マイカーや"所持品総てから離れる"選択をした。

 

己が弱いからこそ、"仕切り直す必要"があったのかも知れない。気性が激しく、完璧主義な元妻から、遠く離れて暮らさないと、"仕切り直せない弱さ"を私は己の中に見ていたのだろう。

ソレはソレ、コレはコレなんて割り切りは出来なかった私は、仕事も辞めて友人知人とも別れ、10数年暮らした地を離れるしかなかった。

生まれた土地を離れ、都会へ出て、彷徨った末に地方で暮らし、そして再びその地を離れようと決めたのだ。私は己の内の或る弱さを変えたかったし、或る強さを守りたかった。

(何故そうまでしなくてはならなかったのかーは、書き切れることではないし、言葉を選んで説明したところで当事者以外に伝わるものでもないのだろう…)

 

 

あの日の事は忘れない。

列車の窓から最後に見た景色…長く暮らした土地は白や黄色の花々が咲いていた。

雪を被った山脈にぐるり囲まれ、目に映っていた景色は遅い春の装いに彩られ、逆にその彩りが悲しかった。

 

 

お金が必要だから稼ぐしかないし、稼ぐには需要が多い場所に行くしかないし、元手が無いから寮付きの仕事に就くしかないし…散々考えた処で、学のない私が思いついたのはその様な考え方でしかなかった。

で、先ずは(当時全盛期だった)建設現場へのお手子(日雇いの手元人夫)派遣会社に登録したのだ。

或る日、地方から始発列車に乗り何回か乗り換えて池袋に出て、面接を受け、幾つか離れた駅にある寮を下見に行き、戻り契約し、建設現場必須の安全帯やヘルメット等必要不可欠な道具を買い求め、駅構内のコインロッカーに保管した。その日トンボ帰りで地方に戻り、最低限の荷造りをした。翌日から挨拶だけはして別れたかった知人何件かを訪ね、以前から話して聞かせていた娘に改めて話さねばならなかった。

私には宝の娘。けれども君を置いて父は家を出る…その理由とここまでの過程を彼女は一番身近な所で感じてはいても、私自身のコトバで何をどう話すかは大切な事だと判ってはいても、あの時ほど辛い会話は過去には無かった。何をどう話した処で娘は不可抗力の被害者でしかなく。親の我儘と不甲斐無さに巻き込まれただけの被害者であり。散歩途中の森の中いつも休んでいた巨大な倒木の上で"いよいよ明日家を出てゆく"事を伝えた。

「そうするしかないんでしょ?」「父ちゃんにそれで笑顔が戻るなら私はそれでいいと思うよ」みたいなコトバを娘に言われた際は、申し訳なくて涙が出た。

娘はもっと辛かったと思う。

夕方に近くの麦畑でいつもの様に黄色いテニスボールでキャッチボールをした。

ごめんな、ごめんなと心の中で思いながら遠投のキャッチボールをした。

 

 

次の一手をどう踏み出せば良いのか… 何からどの様に変えれば良いのか…

東京に出て、板橋区の家具一つ無い無機質な寮部屋の窓から、殆ど星の見えない東京の空を見上げながら、私はいい年齢になって再びまるで判らなくなっていたのだった。やるべき事は判っていても、何を見つめ何を頼りに生きればいいのか、状況として実際に一人になってからの不安は物凄かった。

自分の吐く息が部屋に響いていた。音楽も会話も皆無の自室に、時折り国道を走る車やバイクの音と、階下や並びの酒盛りか麻雀で騒ぐ声が深夜流れてくるのだが、後の隙間の静寂に残ったのは自分の呼吸音だけだった。それが気になったのは後にも先にもあの頃だけだ。

 

今思い出してもあの頃に居た世界は暗く、くすんで真っ暗で。「あゝ此処が俺の人生の"釜の底"だな」とある時そんな台詞が浮かんできた。

「釜の底でなくちゃ困るな。これより下、これより底が待っていたら、俺は耐えられそうにない…」なんて声に出さずに呟いていた気がする。

 

寮暮らしは気が変になりそうで私は毎晩が睡眠不足。ものの半年で音を上げた。会社は前借り禁止だったから消費者金融で借りた金で、埼玉県と境の荒川近くの陽の当たらないアパートを借りた。

築40年位の木造アパート一階の角部屋は季節によっては全く陽が当たらず、常にカビ臭かった。大窓の上部、隣家との狭い隙間から辛うじて都会の空を見上げていた。

そうなのだ。

底の方から見ていたのだ。見ていたのは星なのか、電灯なのか、辛うじて信じていた(見つめていた)小さな灯りを頼りに、壊れそうな心身を引きづって暮らしていた。

(3/3につづく)

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釜の底 1/3(『赤目四十八瀧心中未遂』に想う)

久々の連休に『赤目四十八瀧心中未遂』を観た。 初回と2回目は15-6年程前、3回目は神奈川の西に居を移してからだったと記憶。つまり今回で4回目の視聴だと思う。何故、観たくなったのか…多くの映画作品の中、何故コレを今選んだのだろう…考えていたら様々思い出してきた。

 

元々が初見から小説の読後だった。原作者の車谷長吉作品は何をきっかけとして出逢ったのかは忘れてしまった。
然し30代後半から40代前半にかけてだったか、己の内側の最も奥の方で蠢いていた謂わば自分の暗い部分に触れたのだと思う。あの頃の私は暇をみつけては彼を読み漁った。

先ず短編集『金輪際』次に『漂流物』を読み、打ちのめされた。「同時代にこんな小説家が居るんだ…」と、なんというかある意味で安心した様な記憶がある。

拙い表現でしか私は表せないが彼、車谷の綴る言葉には強い魔力があったのだ。

時に荒く、時に汚く、まるでおぞましい程に泥々と綴られた重い流れからは、(文字にしたらば)"匂い"ではなく"臭い"が立つかのリアリティに感じられ。繰り返し読まずにはいられなかったのだ。

 

 

当時自分は離婚後。

誰に言われたでもなく己の不甲斐無さというか、言葉にすれば"失敗者の烙印"みたいな自責の念に囚われていた。

借金返済と養育費と、何よりその月の家賃を払いライフラインが止められないだけの料金を確保した残り…暦で割れば1日千円に満たない額と成り。食費をもやりくりするのに苦心する生活、そこから抜け出せずにもがいていた。

思い切って上京し都会の建設現場で働きながら、なるべく過酷で日銭の良い職を求めて流れていた。つまり私自身もまた車谷の云う処の"漂流物"そのものだった。

元が大工なのだから大抵の肉体労働には食らいついてゆく気概はあったし、肉体的に楽な職よりは手足を動かして汗をかきながら己の身体一つでどこまで稼げるのか…一度は試してみないと自分の人生は甘い所で終わってしまう様な気がしていた。

 

"二つに道が別れていたら大変そうな方を選べば人は必ず強くなる"

ーそう教えてくれたのは誰だったか、果たして本の教えか…今となっては忘れてしまったが、2年半に及び迷った末の決断でもあったから決して後には引けなかったのだった。

そうして当時、私は自身を出来る限り追い込んで、物質的な条件に於いても謂わば"背水の陣"に向かったのだと思う。

男、四十にして"振り出しに戻る"とは、今にして思えばなんと無謀でなんと身勝手な暴挙であり。

然し、あの時はああせざるを得なかったのだった。

(2/3につづく)

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『チャイルド・オブ・ゴッド』を観て

C.マッカーシーの小説は『すべての美しい馬』に始まり未だ三冊だが読書済みだ。
しかし20年近い長い間に三冊それぞれをかなり苦心して読んだ記憶がある。それは文体が自分の肌に合わなかったのかも知れない。全てが長編だし、対訳によっては非常に読みづらくなるのは海外作者の邦訳小説に於いてはよくある事でもあろう。


なのに彼の作品はアメリカを知る上でなのか、上手くは表現しにくいが読む事が或る使命感の様な気がしたものだ。

或いは一つの重い挑戦状の様な存在と意識され、直ぐに理解は不可能でも兎に角読み進めなくてはならない感覚で投げ出さなかった気がしている。


肌に合わなかったからこそ、記憶に深く刻まれた言葉も沢山あったりする。

中でも一番初めに読んだ『〜美しい馬』の作中に散りばめられた台詞の一部は、己のドラフトノートに書き留めた記憶がある。まるで読後今に至るまで自分の中である意味"この世の中で己が生き抜いてゆく指針"とさえ云える程に刻まれた言葉なのだ。

いずれにせよ『すべての美しい馬』はアメリカ文学の枠を越え、世界各国の壁や時代をも越えて、若者から大人に成長してゆく過程での葛藤を描いたある意味〜青春文学?として未来も輝き続けるだろう。

人生の"旅"を意識し、然も"ここではない何処か"に呼ばれて彷徨った経験有る若者に会えば、きっと私は尋ねるだろう。『すべての美しい馬』を読んだかい?と。

 

思えば私は上記作品をスティーブ・アールという所謂オルタナ・フォークの雄の様なミュージシャンのCD『ELCORAZON』ライナーノーツで知った。コレ名盤でもある。中での紹介のされ方がさり気なく余計に気になり、当時暮らしていた山梨から(題名だけを頼りにメモ持参で)新宿まで出て当時たしか丸井の地下にあったヴァージン・メガストアで購入したのを覚えている。

その頃の私はインターネットすら始めていなかったから、電車を乗り継ぎCDを足で探しに行った。(だからこそ聴いてみて中味が当たりの一枚に出逢うと、それは喜びもひとしおだった。)

新宿から帰路、中央本線の長い乗車時間に我慢出来ずCDを開封し、中に挟まれていたライナーノーツを読んで"C.マッカーシー"の名を初めて知ったのだった。

 

 

さて、コーマック・マッカーシーはどの作品に於いても暗喩的に母国の精神的変化"を描いていると思われ。

つまり"アメリカ"だ。アメリカの"我ら何処から来たりし、何処へゆくや"を。

古き良きアメリカ賛歌ではなく、古くから現在に至るまでの母国に対する不安や懸念を、時に哀愁や、時に不毛な迄の寂寥を散りばめる。

絵にすれば…地平線の彼方からヒタヒタと迫り来る何かを、時代と共に追い続けるたった1匹生き残った狼の様な…そんな感覚がある。

それが時に読む者を宥め、時に息苦しささえ覚える程の深い深いため息をつかせる。私は作品に於いて強弱や緩急の只ならないリズムが好きだから、その両極端に目を瞑り景色を想う…
結局の処、マッカーシー作品が好きなのだろう。

 

しかし、原作の小説と映画は常に別物だ。

別のモノ、全く異なる一つの作品として味わった上で、例えば『すべての美しい馬』の様に小説も映画もそれぞれ記憶に残る出逢いであり続ける場合もあり、『ロード』や『ノー・カントリー』の様に小説は再読する勇気が湧かなくても映画は既に再三鑑賞してしまう程お気に入りの作品もある。

 

 

『チャイルド・オブ・ゴッド』

マッカーシーの映画化された作品は全て購入しているのに、当作品は店頭で手にするも何故かレンタルさえする気も湧かずに居た。コレを借りるなら別の此方を〜みたいな感じで避けてしまった。

それが時が経ち、ネットの無料配信で鑑賞する機会があった。結局は観た。

 

申し訳ないけれど当作品は原作は未読。で映画は…二度と再観しないだろう。

理由は明確。

俳優は頑張っている。
しかし誰かが何処かのレビューでズバリ指摘されていたが、森に暮らす天涯孤独で粗暴な主人公の"歯が真っ白で綺麗"なのはオカシイ。そこは"大切なんじゃないか⁈"と感じてしまう。

そんな細部は別に気にならない"全体の流れが凄いんだから細部は目を瞑っても○"みたいな作品ではなかったから、逆に歯の白さや首から下の肌の綺麗さが甘いというか…気づいて引いてしまう。

つまりは(主人公の頑張りの他は)撮影期間や美術や編集全てが、予算が無いのか否かでは無いと感じてしまう位に仕上げに対し甘過ぎて、ガッカリにも程があったのだ。

 

他人のレビューには惑わされない性質と自負している傲慢ささえ持ち合わせた私だが、映画や作品鑑賞に向ける熱は高いままだ。
気持ち悪い表現に聞こえるかも知れないが、好きな作品には平伏する位に愛さえ感じる。

 

しかし当作品の出来は監督の狙いすら何処の方角を向いて仕上げたかったのか理解の端も視えず、お粗末としか感じられないから、原作者がこれを観たらなんと思ったのか心配な位だ。

 

"我ら皆が神の子"であり。
それは叩かれる者も叩く者も、そして傍観する側も裁く側も。
そして我々が普段迷う事もなく理性の壁を越えないに対し、この話の中で主人公は決して一気にではなくじわじわと壁に追いやられた末に一線を越えてしまう。

法の裁きではなく、民衆の糾弾と交渉の果てに追い詰められ、奥へ奥へ追い詰められ。

狭き門、洞窟の果てに在る光は神が射したものなのか…
しかし光に導かれ、抜け出た先はやはり寂寞とした風景でしかなく。

これまで彼が歩んだ孤立地獄の地に変わりはない現実を私達観る者は気付かされる。
其処はアメリカの排他性に満ちた田舎でしかなく、主人公は直ぐにこれまで以上の仕打ちを受けるであろう事は明白だ。
なのに彼の雄叫びはまるで神を見つけたかのチャイルドであり…

 

原作を読まなくともこれまでの彼の作品に於ける通奏低音に鑑みれば、作者のいわんや嘆きや叫びや願いを込めた静かで重い言葉を組み合わせて何が描きたかったかは想像出来よう。

 

しかし繰り返すが、この映画はマッカーシーの描く領域に追いついていない。
大ヒット作品と成った『ノーカントリー』の様な、サービスを含めての映像表現として原作とは別物に練り直し、それでも昇華していれば、きっと観る者には訴える何かが残る筈だ。

その何かが原作の魂みたいな部分と隔たれていなければ、私は観れて良かったと感謝の念を抱こう。


マッカーシーの描く作品は怖しい母国の変化から目を逸らしていないから私には大変貴重な存在なのだ。

サービスが忍ばされがちなエンターテイメントでしかないとも云えよう小説や映画の世界に於いても大変貴重だと思うのだ。

原作を未読で憤慨もへったくれもナイ筈だが、私は言いたいのだ。

作品をつくる際はどんな世界に於いても、もっと方向性を定めて、突き詰めて発表して欲しい。

手放しの自由などこの世に無いのだから。

無いのだから夢を魅せてくれ。

 

時間や文字や、常に制限の中で、作り手が焦点を(様々な絞り方があろうが)定めて水準を上げるからこそ、鑑賞する側はそれに対して考えさせられたり噛み締める事が可能な筈だ。

 

簡単に言えば好きだから、つい熱くなってしまった…

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