半月と硝子のブイ

so-net 『半月と硝子のブイ』の再開

『チャイルド・オブ・ゴッド』を観て

C.マッカーシーの小説は『すべての美しい馬』に始まり未だ三冊だが読書済みだ。
しかし20年近い長い間に三冊それぞれをかなり苦心して読んだ記憶がある。それは文体が自分の肌に合わなかったのかも知れない。全てが長編だし、対訳によっては非常に読みづらくなるのは海外作者の邦訳小説に於いてはよくある事でもあろう。


なのに彼の作品はアメリカを知る上でなのか、上手くは表現しにくいが読む事が或る使命感の様な気がしたものだ。

或いは一つの重い挑戦状の様な存在と意識され、直ぐに理解は不可能でも兎に角読み進めなくてはならない感覚で投げ出さなかった気がしている。


肌に合わなかったからこそ、記憶に深く刻まれた言葉も沢山あったりする。

中でも一番初めに読んだ『〜美しい馬』の作中に散りばめられた台詞の一部は、己のドラフトノートに書き留めた記憶がある。まるで読後今に至るまで自分の中である意味"この世の中で己が生き抜いてゆく指針"とさえ云える程に刻まれた言葉なのだ。

いずれにせよ『すべての美しい馬』はアメリカ文学の枠を越え、世界各国の壁や時代をも越えて、若者から大人に成長してゆく過程での葛藤を描いたある意味〜青春文学?として未来も輝き続けるだろう。

人生の"旅"を意識し、然も"ここではない何処か"に呼ばれて彷徨った経験有る若者に会えば、きっと私は尋ねるだろう。『すべての美しい馬』を読んだかい?と。

 

思えば私は上記作品をスティーブ・アールという所謂オルタナ・フォークの雄の様なミュージシャンのCD『ELCORAZON』ライナーノーツで知った。コレ名盤でもある。中での紹介のされ方がさり気なく余計に気になり、当時暮らしていた山梨から(題名だけを頼りにメモ持参で)新宿まで出て当時たしか丸井の地下にあったヴァージン・メガストアで購入したのを覚えている。

その頃の私はインターネットすら始めていなかったから、電車を乗り継ぎCDを足で探しに行った。(だからこそ聴いてみて中味が当たりの一枚に出逢うと、それは喜びもひとしおだった。)

新宿から帰路、中央本線の長い乗車時間に我慢出来ずCDを開封し、中に挟まれていたライナーノーツを読んで"C.マッカーシー"の名を初めて知ったのだった。

 

 

さて、コーマック・マッカーシーはどの作品に於いても暗喩的に母国の精神的変化"を描いていると思われ。

つまり"アメリカ"だ。アメリカの"我ら何処から来たりし、何処へゆくや"を。

古き良きアメリカ賛歌ではなく、古くから現在に至るまでの母国に対する不安や懸念を、時に哀愁や、時に不毛な迄の寂寥を散りばめる。

絵にすれば…地平線の彼方からヒタヒタと迫り来る何かを、時代と共に追い続けるたった1匹生き残った狼の様な…そんな感覚がある。

それが時に読む者を宥め、時に息苦しささえ覚える程の深い深いため息をつかせる。私は作品に於いて強弱や緩急の只ならないリズムが好きだから、その両極端に目を瞑り景色を想う…
結局の処、マッカーシー作品が好きなのだろう。

 

しかし、原作の小説と映画は常に別物だ。

別のモノ、全く異なる一つの作品として味わった上で、例えば『すべての美しい馬』の様に小説も映画もそれぞれ記憶に残る出逢いであり続ける場合もあり、『ロード』や『ノー・カントリー』の様に小説は再読する勇気が湧かなくても映画は既に再三鑑賞してしまう程お気に入りの作品もある。

 

 

『チャイルド・オブ・ゴッド』

マッカーシーの映画化された作品は全て購入しているのに、当作品は店頭で手にするも何故かレンタルさえする気も湧かずに居た。コレを借りるなら別の此方を〜みたいな感じで避けてしまった。

それが時が経ち、ネットの無料配信で鑑賞する機会があった。結局は観た。

 

申し訳ないけれど当作品は原作は未読。で映画は…二度と再観しないだろう。

理由は明確。

俳優は頑張っている。
しかし誰かが何処かのレビューでズバリ指摘されていたが、森に暮らす天涯孤独で粗暴な主人公の"歯が真っ白で綺麗"なのはオカシイ。そこは"大切なんじゃないか⁈"と感じてしまう。

そんな細部は別に気にならない"全体の流れが凄いんだから細部は目を瞑っても○"みたいな作品ではなかったから、逆に歯の白さや首から下の肌の綺麗さが甘いというか…気づいて引いてしまう。

つまりは(主人公の頑張りの他は)撮影期間や美術や編集全てが、予算が無いのか否かでは無いと感じてしまう位に仕上げに対し甘過ぎて、ガッカリにも程があったのだ。

 

他人のレビューには惑わされない性質と自負している傲慢ささえ持ち合わせた私だが、映画や作品鑑賞に向ける熱は高いままだ。
気持ち悪い表現に聞こえるかも知れないが、好きな作品には平伏する位に愛さえ感じる。

 

しかし当作品の出来は監督の狙いすら何処の方角を向いて仕上げたかったのか理解の端も視えず、お粗末としか感じられないから、原作者がこれを観たらなんと思ったのか心配な位だ。

 

"我ら皆が神の子"であり。
それは叩かれる者も叩く者も、そして傍観する側も裁く側も。
そして我々が普段迷う事もなく理性の壁を越えないに対し、この話の中で主人公は決して一気にではなくじわじわと壁に追いやられた末に一線を越えてしまう。

法の裁きではなく、民衆の糾弾と交渉の果てに追い詰められ、奥へ奥へ追い詰められ。

狭き門、洞窟の果てに在る光は神が射したものなのか…
しかし光に導かれ、抜け出た先はやはり寂寞とした風景でしかなく。

これまで彼が歩んだ孤立地獄の地に変わりはない現実を私達観る者は気付かされる。
其処はアメリカの排他性に満ちた田舎でしかなく、主人公は直ぐにこれまで以上の仕打ちを受けるであろう事は明白だ。
なのに彼の雄叫びはまるで神を見つけたかのチャイルドであり…

 

原作を読まなくともこれまでの彼の作品に於ける通奏低音に鑑みれば、作者のいわんや嘆きや叫びや願いを込めた静かで重い言葉を組み合わせて何が描きたかったかは想像出来よう。

 

しかし繰り返すが、この映画はマッカーシーの描く領域に追いついていない。
大ヒット作品と成った『ノーカントリー』の様な、サービスを含めての映像表現として原作とは別物に練り直し、それでも昇華していれば、きっと観る者には訴える何かが残る筈だ。

その何かが原作の魂みたいな部分と隔たれていなければ、私は観れて良かったと感謝の念を抱こう。


マッカーシーの描く作品は怖しい母国の変化から目を逸らしていないから私には大変貴重な存在なのだ。

サービスが忍ばされがちなエンターテイメントでしかないとも云えよう小説や映画の世界に於いても大変貴重だと思うのだ。

原作を未読で憤慨もへったくれもナイ筈だが、私は言いたいのだ。

作品をつくる際はどんな世界に於いても、もっと方向性を定めて、突き詰めて発表して欲しい。

手放しの自由などこの世に無いのだから。

無いのだから夢を魅せてくれ。

 

時間や文字や、常に制限の中で、作り手が焦点を(様々な絞り方があろうが)定めて水準を上げるからこそ、鑑賞する側はそれに対して考えさせられたり噛み締める事が可能な筈だ。

 

簡単に言えば好きだから、つい熱くなってしまった…

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