半月と硝子のブイ

so-net 『半月と硝子のブイ』の再開

釜の底 2/3(『赤目四十八瀧心中未遂』に想う)

あの時代の私は… 大多数の赤の他人に紛れ、埋もれまいと必死にもがきながら、我が人生最大の(否、最低の)孤独を痛感していた。

世間ではバブル崩壊後の迷走した世相の中、派遣会社なるものが乱立し始め、来るべき老齢社会に向けてホームや関係施設他バリアフリーや薬局とかコンビニ迄敷地内に備えたマンション等の建築ラッシュであった。

もしかしたら私は自ら、その様な場所で汗をながして働く道を課したのかも知れない。没個性的に手足を動かして金を稼ぐ世界に身を置きたかったのかも知れない。

そうでもしないと、それまでの"なんとなく生きて来てしまった"歩みを、新たに、改めての歩みに変えることは出来ないと考えた筈だ。

それは言うなれば"決別"だったと今となっては思う。至極、自分勝手な、自分一人が変わる為の、"決別"だったと。

17歳からダラダラと幾つもの職場を転々としてきた自分や、10数年の本当に色々あった結婚生活や、身寄りの無い田舎へ移住してのゼロからの暮らしや、つまりはこの先を生きるには"過去から離れなければならない"と思い込んだのだ。

次のステップを前向きに生きるには…きっと物質的な実際の距離や、マイカーや"所持品総てから離れる"選択をした。

 

己が弱いからこそ、"仕切り直す必要"があったのかも知れない。気性が激しく、完璧主義な元妻から、遠く離れて暮らさないと、"仕切り直せない弱さ"を私は己の中に見ていたのだろう。

ソレはソレ、コレはコレなんて割り切りは出来なかった私は、仕事も辞めて友人知人とも別れ、10数年暮らした地を離れるしかなかった。

生まれた土地を離れ、都会へ出て、彷徨った末に地方で暮らし、そして再びその地を離れようと決めたのだ。私は己の内の或る弱さを変えたかったし、或る強さを守りたかった。

(何故そうまでしなくてはならなかったのかーは、書き切れることではないし、言葉を選んで説明したところで当事者以外に伝わるものでもないのだろう…)

 

 

あの日の事は忘れない。

列車の窓から最後に見た景色…長く暮らした土地は白や黄色の花々が咲いていた。

雪を被った山脈にぐるり囲まれ、目に映っていた景色は遅い春の装いに彩られ、逆にその彩りが悲しかった。

 

 

お金が必要だから稼ぐしかないし、稼ぐには需要が多い場所に行くしかないし、元手が無いから寮付きの仕事に就くしかないし…散々考えた処で、学のない私が思いついたのはその様な考え方でしかなかった。

で、先ずは(当時全盛期だった)建設現場へのお手子(日雇いの手元人夫)派遣会社に登録したのだ。

或る日、地方から始発列車に乗り何回か乗り換えて池袋に出て、面接を受け、幾つか離れた駅にある寮を下見に行き、戻り契約し、建設現場必須の安全帯やヘルメット等必要不可欠な道具を買い求め、駅構内のコインロッカーに保管した。その日トンボ帰りで地方に戻り、最低限の荷造りをした。翌日から挨拶だけはして別れたかった知人何件かを訪ね、以前から話して聞かせていた娘に改めて話さねばならなかった。

私には宝の娘。けれども君を置いて父は家を出る…その理由とここまでの過程を彼女は一番身近な所で感じてはいても、私自身のコトバで何をどう話すかは大切な事だと判ってはいても、あの時ほど辛い会話は過去には無かった。何をどう話した処で娘は不可抗力の被害者でしかなく。親の我儘と不甲斐無さに巻き込まれただけの被害者であり。散歩途中の森の中いつも休んでいた巨大な倒木の上で"いよいよ明日家を出てゆく"事を伝えた。

「そうするしかないんでしょ?」「父ちゃんにそれで笑顔が戻るなら私はそれでいいと思うよ」みたいなコトバを娘に言われた際は、申し訳なくて涙が出た。

娘はもっと辛かったと思う。

夕方に近くの麦畑でいつもの様に黄色いテニスボールでキャッチボールをした。

ごめんな、ごめんなと心の中で思いながら遠投のキャッチボールをした。

 

 

次の一手をどう踏み出せば良いのか… 何からどの様に変えれば良いのか…

東京に出て、板橋区の家具一つ無い無機質な寮部屋の窓から、殆ど星の見えない東京の空を見上げながら、私はいい年齢になって再びまるで判らなくなっていたのだった。やるべき事は判っていても、何を見つめ何を頼りに生きればいいのか、状況として実際に一人になってからの不安は物凄かった。

自分の吐く息が部屋に響いていた。音楽も会話も皆無の自室に、時折り国道を走る車やバイクの音と、階下や並びの酒盛りか麻雀で騒ぐ声が深夜流れてくるのだが、後の隙間の静寂に残ったのは自分の呼吸音だけだった。それが気になったのは後にも先にもあの頃だけだ。

 

今思い出してもあの頃に居た世界は暗く、くすんで真っ暗で。「あゝ此処が俺の人生の"釜の底"だな」とある時そんな台詞が浮かんできた。

「釜の底でなくちゃ困るな。これより下、これより底が待っていたら、俺は耐えられそうにない…」なんて声に出さずに呟いていた気がする。

 

寮暮らしは気が変になりそうで私は毎晩が睡眠不足。ものの半年で音を上げた。会社は前借り禁止だったから消費者金融で借りた金で、埼玉県と境の荒川近くの陽の当たらないアパートを借りた。

築40年位の木造アパート一階の角部屋は季節によっては全く陽が当たらず、常にカビ臭かった。大窓の上部、隣家との狭い隙間から辛うじて都会の空を見上げていた。

そうなのだ。

底の方から見ていたのだ。見ていたのは星なのか、電灯なのか、辛うじて信じていた(見つめていた)小さな灯りを頼りに、壊れそうな心身を引きづって暮らしていた。

(3/3につづく)

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