半月と硝子のブイ

so-net 『半月と硝子のブイ』の再開

『ピアノ・レッスン』〜浜辺と廊下にチャリー・ワッツ

過去3回は鑑賞した作品。

どなたかが仰っていたー映画は自分にとってつまらない作品を数多く観るより、好きな作品を何回も見返す方が人生は豊かになるーたしかにそうかも知れない。
で最近、同監督の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』を観た際に本作を思い出した。否、本作を撮った同監督だったから新作も観たのか…

 

鍵を握る役柄演じるハーヴェイ・カイテルは名画『タクシードライバー』の脇役を、学生時代に三鷹のオスカーで初見以来好きな俳優。だが、聾唖の主人公役であるH.ハンターの元来の容姿(特にお顔)がどうにも私的に苦手なタイプなもんだから、今一つならぬ今0.5って処か。

彼女の演技は導入から凛として素晴らしく、故に後半で泥土に黒鳥の如く倒れるシーンは圧巻であり、声を発しない設定だけに其の演技演出の静動の対比落差は素晴らしかった。

 

 

余談になるがー
最近は直ぐ対処しないと何につけ直ぐ忘れる…
そのくせ忘れた方が良いかも知れない事を、不図した隙間にまざまざと思い出したり…
あと、食卓の自分の席の横に古いガットギター(パートナーの父親形見)が立て掛けてあり時々数分奏でるのだけど、最近は以前の運指滑らかさには程遠い。だんだんチューニングさえ雑になってきている。
気付きながら直さない事を、時に我に還り虚くなる時がある。

諸々を、表面では"忙しいから仕方ないか"なんて自らに言い聞かせている。
総て歳のせいにしては駄目か…な?


又、話変わってー
Y県在住時に散々お世話になった鍼灸師は技を生かし、家族二世代でニュージーランドに移住された。知り合いのイラストレーターC丸氏はツテを頼りに移住した。
一時期、ワタシの脳裏には新天地としてこの舞台が浮かんでいた。何も知らないだけに。


"知らない"と云う事は或る意味で罪であったり、或る意味で美徳でもあろうしチカラにもなったりする。
"知らない"が赦される間(時期)に勇気に変えて行動すべし。下調べばかりして頭でっかちになっちゃいけない。そう、頭が重くなればなるほど、確かな初めの一歩は踏み出せない……それはワタシが振り返って強くそう思う、つまり学んだ事だ。

現代はインターネット検索が既に当たり前の行為となり、軽いタッチ幾つかで世界の果てから精神の底まで恰も判ったかに思いがちな恐ろしい時代だから…なかなか初めの一歩は難しくなろう。

 

しかし、つまずいたって死ななきゃいい。つまずくのは早ければ早いほど、又仕切り直してやり直せばいい。生きていれば出来る。
"タイミングやチャンスは自ら作るもの"ーそれも理。併し人生の時計はどんどん早くなるもの。
時間ばかりが過ぎ、もし開き直りの気構えは強まったとしても、肉体のバネは下降し、背負う物事は増えてゆく。
タイミングやチャンスのドアは、やたらには無いもの。そんなドアを何回か通り過ぎてしまうと、もうその廊下の先に並ぶ扉の鍵は手元には無かったりする。

扉さえ見つけられない場合もあるかも知れない。アルコールやドラッグに溺れたり、他人に依存ばかりして、きっと一つの暗い部屋に閉じこもっている様にみえた人も、もしかするとずっとずっと扉を探して独りで終わりの無い廊下を歩いていたのかも知れないなーなんて思ったりする。

…時間の廊下は戻れないしね。

 

 

ワタシにとってニュージーランドは、昔カレンダーやネットで見た風景写真の他には、本作で主人公の娘が流れ着いた海藻を手にバレエ風に踊る浜辺が脳裏に浮かぶ位なのだ。未だに良くは知らない地なのだ。
けれども、既にその浜辺から聴こえる本作の切ないピアノの調べは、きっと楽譜に並ぶ音符通りに近く、もしかすると懐メロ的な匂いすらしているのかも知れない…

 

ま、いずれにせよだ。鍵盤はからっきし苦手な自分には、今からピアノのレッスンは遅いに違いない。
足元の出来る事を一つ一つこなしてゆくしかない。本気でそう思う。
何故なら、鍵盤は一音づつしか叩けない自分だから。

何処からか"Time waits for no one"のチャーリーが叩くリムショットが聴こえる…

 

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