半月と硝子のブイ

so-net 『半月と硝子のブイ』の再開

『六月の雨の夜、チルチルミチルは』〜ぐっどばい

友部正人に "6月の雨の夜、チルチルミチルは" という好きな歌がある。
美しく切ないながら楽しいメロディに乗せて、彼のどことなく音程のズレた様な朴訥な声が、哀しい…そう、悲しく"刹那過ぎる内容"を歌いあげる。

 

以前より幾つかのアップをYouTubeで観聴き可能だ。中でも個人的にはバックバンドがパスカルズの演奏バージョンが気に入っている。
彼らの謂わば"現代的なちんドン(ジンタ)演奏"は何処となく切なくて、チープで面白い。正直、予定調和から外れない我が国のポップスとやらより、遥かに素晴らしいと思う。
バンマスのロケット松が率いる彼ら彼女ら大所帯の奏でるサウンドには"或る昇華"の様な盛り上がりを感じざるを得ず。
そして、友部正人が唄うこの歌の内容にも、とても合っていると思う。


私は大抵この動画を一人で観る(聴く)のだが、なんてことはない。理由は単純だ。
内心、平常心で居られなくなる自分を知っているからである。言うなれば、表情や態度に全く感情を出さずに観る(聴く)自信が未だ無いからである。
それは、何十年と云う長い時間が過ぎようが変わらない、変われない、"奥底に在る確かな感覚"とでもいうか…

 

サビのクライマックスでは次の様に唄われる。


"知らないことで まんまるなのに
知ると 欠けてしまうものがある"


 

生きていると自分一人ではどうにも出来ない、直ぐにも後にも変えられない問題にぶつかる事がある。
大抵、その壁にはタイムリミットが有る。

時は、1分1秒と時は止まってはくれないから。


だから、その時にどうしようもなければ、後々になって一瞬立ち止まり振り返っても、もうどうにもならない場合がある。

 

時として、消えたものは現れない。
居なくなってしまった者は、二度と生き返ることがない。

 

飼っていた虫や魚や、家族だった犬や猫もだ。

喧嘩してから又仲良くなった友人もだ。

昔、叱ってくれた祖父や優しかった祖母も。

好き合った人も。

 

唯、見送ることしか出来ない。

"さよならだけが人生か"
そう書いたのは太宰だったか?


6月は我の誕生月だ。
大概、ジメジメと湿度が高く鬱陶しい。正直、好きな季節ではない。

そんな中での梅雨の晴れ間、空がなんとなく高く感じられる陽気の日がある。
紫陽花が綺麗だなとか、カタツムリが喜んでいるぞとか、カラスがやたら煩いなァ→子作りの時期なのかとか…毎年似た様な事を思ったりもして。

『六月の雨の夜、チルチルミチルは』

この歌を聴いた後の感覚、それは梅雨の最中に立ち止まり、不図遠くに想いを馳せる様な感覚とでも云うのか…

 

 

私はこれまで幾度も地団駄を踏み、幾度も抗いながら来たような気もするけれど、

或る大切な場面場面で結局は、唯、棒の様に突っ立って、見送ることしか出来なかった様な気がする。

さよならを、ちゃんと言えない場合も多かったかも知れない。

 

だから…

"見届ける" 為にも、懸命に生きようと思ったりする。

 

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『モーターサイクル・ダイヤリーズ』〜河を渡る

俺はどうする?
俺はゆくのか? それとも此処に留まるのか?
俺はどうする?

其の河を渡るのか? それとも渡らないのか? 

 

自問する為にだろうか…盤を購入してから回数は忘れた位に観た。

映像に満ちる風景がチャランゴの音色に導かれ、ヤケに沁みる。

あの頃、幼い娘にも観せたら不思議と飽きずに最後まで観ていたっけ。
おかげで娘は海外の田舎に一人旅する人間に成ってしまった。

あれからワタシもまた留まらずゆき、さすらったもんだ。
不味い河も渡りそうになり、海もを渡って島で働いたり、戦場の様な巨大建設現場で働いたり、かなり彷徨ったもんだ。
果て、現在ここに来て早14年だ。

 

ここに居て、相変わらず河を泳いでいる。
泳ぎながら、"見えると信じている"んだろうな…見えない対岸を未だ未だ探しているみたいだ。

モーターサイクルの前面に貼り付けられた小さな旗の様に、胸中では轟々とした風を感じている。

 

 

周りで最近、毎日立て続けに大変な事が起こる。
凹む。続くと流石に漢方系の胃薬が必要だ。
でも以前とは違い、"大丈夫だ、どうにかなるって" と思えるのは、何故だろう…

 

それはきっと、こんな映画や、どんなに忙しくても地味に続けている絵画創作や、大好きな音楽が聴けるからだ。
そして生活拠点を街から離したからだ。
人間より、獣や虫や、突然のスコールや、季節毎異なる風を、日々感じる仕事をしているからだ。

 

山の仕事は一言で辛い。
10代後半から、実に色んな仕事に関わってきたが、そりゃどんな仕事にも辛さはあった。でも、辛さにも色々ある。
山は一年中、1日の気温差が凄い。とにかく湿度との闘いが凄い。爽やかな1日など一年に数回感じられたらいい位だ。
そこに早朝から夕方まで居る。居るだけで大変なのだ。だから就業しても一年で辞める者が多い。
そして瞬発可能な筋力と、何より持久力が要る。相手が自然で広大だから、緻密な計画性と技術の工夫も求められる。
毎日の筋肉ストレッチや、休日にもある程度の筋トレ負荷は欠かせない。
摂取カロリーやエネルギーは常に意識していないとならない。でないとフラついて思わぬ怪我に繋がる。自身も何回も縫う怪我をしてきた。
これらは仕事をする現場が、平均斜度30〜50°なのだから、従事すると決めた以上は致し方無い事なのだ。

 

なのに賃金はかなり安い。
だから金は貯まらない。
なのに〜なーぜー♪身を粉にして日々脱水症状手前まで汗して働いているんだろ…?


それはこんな素敵な映画のせいもあるだろうと思う訳だ。
私なんて、この映画の主人公達とは異なり足元にも及ばないけれど、
決して一番目に金や名声を目指してではないし、一位や優勝やヒット作目指してじゃあないんだ。もう、そんなものに必死に足掻くのは辞めたんだ。

コトバにしたらば烏滸がましいけれど、謂わば川や海の為であり、一生会わないだろう他人様皆様や魚や獣や、自分が居なくなった先の未来の為だ。其処で未だ我が娘は生きるんだし。本気でそう考えて、社会の端っこで黙って担っている。
そして何よりも、それこそが自分自身の為なのだから。結局そこがワタシの原動力なのだから。


だから、ワタシは人生後半に来て息が出来る様になった気がする。

 

 

本作は自分にとっては、実際のストーリーや登場人物ではなくて、イメージや象徴として非常にエポックな(或る意味では)青春映画だ。

 

ちなみにグスターボ奏でる(たしかチャランゴの)サントラも素晴らしい♪
ジャケット写真も懐かしいECMみたいな風合いが素晴らしい。

 

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『ロストチルドレン』〜胡座の中、揺蕩う小舟

ジャン=ピエール・ジュネ監督作品の中で一番好きな物語り。そう、或る完成度の高い物語りである。

そして既に社会人と成って久しい我が娘が未だ幼い頃、ワタシの胡座の中でちょこんと座り、何回も一緒に観た忘れられない作品でもある。

娘がこの作品を観る時、必ずや"ガボっ"とか"ゲボ〜"とか笑いながら真似をしていたのを思い出す。

 

 

赤と苔緑と漆黒手前の群青色の闇の中で、素晴らしく凝りまくったセット内で物語は進む。

誠に純粋な怪力男と、世界で一番美しいのではないかとさえ感じてしまう美少女との絆が描かれる。

 

決して堅物な我が国では設定されない、そして何かと世知辛い昨今の世の中では設定しにくい、謂わばフリークス達が蠢く。

そして或る意味で淫らで怪しい演出。然しそれはポルノではなく、子供と一緒に鑑賞可能な世界なのだ。

実際は子供心を忘れがちな大人達に向けたお伽噺。或いは魔法がかった紙芝居の様な…

入り組んだセットの中で、主人公達と共にワタシ達観る側も、永遠に脱出出来ないかの迷路に嵌まり込んでゆく。

この美術感覚が肌に合わない者は置いてきぼりを喰らい、白けてしまうだろう。

 

あくまで三拍子の迷宮音楽。

徹底した退廃的な凝り方の美術。

演技を訓練した大人には誰一人として真似出来ないであろう、幼子達それぞれの活躍。

そして何より、『薔薇の名前』に於いても主人公達より強い印象を残す怪優ロン・パールマンのThe 快演!

そして一説に依れば、本作のみで映画界から離れたという伝説の美少女…

瞼を閉じれば今も直ぐ、暗い大海の上を揺蕩う小さなボートに、二人(正確にはゲップする赤ちゃん入れて三人かな)が乗っている絵が浮かんでくる。

 

 

この作品は或る表現をするならば端っこに在る。端っこで輝いている。

併しそれはデジタルな光ではない。あくまでアナログな、どこか温かく優しい光だ。

生涯に渡って時々観たくなるお伽話、己の一つのバロメーターでもある気がするのだった。

 

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『ミラーズクロッシング』〜森の小径に吹く風

この作品、好み過ぎてなかなか文が書けなかったのだった。過去何回観たか覚えてない。見てくれや表層事象ではなく、主人公ガブリエル・バーンの立ち位置や精神の流離いと咆哮というか…兎に角、コチラ好みの琴線真ん中をダーツで射抜いてくる。

 

"ミラーズクロッシング"とはその森、その土地の字名なのかも知れない。何回も鑑賞してきたが、ワタシは未だに調べようとはしてない。
けれど、複層的な自我や、各々の歩んできた道の交差ポイントみたいな意味として、とても素晴らしい題名だと感じられる。

 

 

もはや世界的に有名なコーエン兄弟のひねくれ加減やシュールな演出ははやくもコノあたりの作品に型どられてはいるが、この作品は一風何処かが異なる気がする。
本作品は禁酒法時代の古きギャング達の至極ニンゲン的な、否、唯の独りの男を中心とした愛憎劇としてこそ秀逸な脚本だと云えよう。

 

観る側が、激しいドンぱちシーンや説明的な大上段から構えた台詞を望むならば、そうは楽しめないかも知れない。
併しいつの時代であれ、どんな枠組みの中でどんな役割を担う立場であれ、腕力より知恵…そして図らずも情を潜ませた一人の中年の彷徨い(右往左往と云った方が正しいかしらん)を味わえる感覚が有るならば、きっと観終えた時には静かな満足が得られよう。

 

大好きな怪優タトゥーロも果てしなくどうしようもない男を名演してる。
芸達者なマーシャ・ゲイ・ハーデンもタトゥーロ姉役で与えられた役を見事にこなしている。名優アルバート・フィニーは弱味有りのボス役で、老いて尚も燻銀の輝きだ。
だが然し、肝心の主人公G.バーンはと云えば、まるで饒舌ではない。寡黙だ。其処が良いのだ。
しかも時に泣きっ面に蜂的に落魄れた姿を晒す。
彼が寡黙な分、観る側は彼の心の中や物語の行く末に想いを馳せるのだ。

外で、特にワタシが従事している第一次産業の様な仕事中にも、口から生まれた様な所謂お喋りが居たりする。その様な暇さえあれば口を開く輩は、兎角己の頭脳が切れると内心で自負していると感じたりする。

併し違うと思う。どちらかと云えば、いざという際に無責任な場合が多い。

つい、映画から話が逸れた。(苦笑&反省)

単にお喋りが嫌いだから、主人公の寡黙でありながら人間味溢れる渋い演技に痺れるのかも知れない…そう云う訳だ。


そう…本作等は、ながら美味いラム酒かストレートジンを味うかに観守るしかないだろう。

高い酒ばかりが決して美味い訳ではないのだから。
お子チャマにはワカラナイ味わいがこの作品には漂っている。

 

"ミラーズクロッシング"……
時過ぎて尚、ワタシは素敵な題名だと感じている。

 

 

己の中の森の小径。


吹く一陣の風に、軽く落ち葉が舞い上がる。


黒いハットがふわり、ふわり。


そして、コロコロと転がってゆく…

 

 

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『エレファントマン』〜後ろの向こうの方

当時、池袋で教育実習生と観た。
当方は生徒だったから奢られた。17歳の誕生日プレゼントだった。
五歳上の美術系女子大生H.S.姐さんはワタシには怪しく(妖しく?)艶かしく、Hな感覚でしか眼に映らずだった。
併し本作の強烈なインパクトには打ちのめされた。
館内で直ぐ隣りから漂う若い姐さんの匂いにも増して…
怪しく(怪しく?)て、恐ろしく。
艶かしく、湿っていて…
正直、興奮した。

何故なら、それまで知ってきた世界とは明らかに異質な世界が、暗い館内でスクリーンに映っていたのだからー

 

映画館を出て、路上テーブルの店でラーメンを食べながら彼女は言ったんだ。
"なんか一緒に観る映画じゃなかったネ〜?"
どうだった?と尋ねられたからワタシは
"(ストーリーには)驚いたけど、嫌いじゃない。"とか何とか答えた筈だ。
未だ未熟で自分のコトバを持たない若僧な己が恥ずかしかったーその感覚を覚えている。


あの日あの夜、彼女と観た本作に因ってワタシの中で何かが変わったのは確かだ。
言い換えたならば〜本作を彼女と観たあの夜から、我の中で何かが壊れ、何かが弾けたと思う。社会性を保った告発や或る啓示や記録的要素等といった解釈ではなく、謂わば表現としての初体験。因ってワタシの内側の何かが芽を噴いた夜だった。

謂わば真面目に勉学に勤しむ学生ではなく、"ROCKとJAZZと映画"と"セックスとアルコールと煙草"のメビウスの輪的日々のスタートを切ったのは…なんとリンチ作品に因って〜だったのだ。

今にして思えば、年上の彼女は見抜いたのかも知れない。本人も含め、ワタシに対しても確信犯だったとも感じる。

 

その後、彼女とは辛い別れを経験した。

その後、別れは何回も経験したけれど、初めての相手であった彼女との別れは生涯つきまとうかの…

青く赤く、苦く甘く、ずっとずっと遠去かり続けてはいるのに今この時もお腹の中に張り付いている様な、忘れられない思い出だ。

 

当時ワタシは未だD.リンチを知らない。監督名や脚本家等を意識する感覚もあまり無かっただろう。ひたすら其の表現の表出させ方にノックアウトされたまま過ごしていた。

以降、視聴対象の尺度や触覚が変化したのはたしかだ。

 

 

童貞喪失の記憶
或る時期迄のマザー・コンプレックス
陰や暗や虚の方へと
螺旋に惹かれる感覚

それらの源を辿れば
岩清水の初めの水滴は
山裾の虚構の毒家に落ち

その流れの少し先の滝壺には
池袋の蒸し暑い夜に
象男が鎮座している

 

 

前述は、現代の様にインターネット等が普及してない時代の話だ。
電車内で一部の会社員がどデカい携帯電話を受信機ごとショルダーバッグ式で下げていた時代の話だ。
ネット検索ではなく、自らのチョイスでもなく、出逢ったヒトとの関わりの内に流れから偶然に観た作品。
その一本が後の人生にずっとずっと、確かな色合いの"影を落とす"事があったりする。

それは善悪や明暗では分けれ(計ら)ない事だし、個人の経験の中に鎮座しているから先ず容易ではない。
作品の出来不出来や比較や評論はしないし関係ない。当時の自分が観て胸に刻まれ、唯そのままでいいと思っている。
或る時期までは"片付けよう""片付けなくては進めない"と抗っていたから、結局は楽しくはなかった気がする。
その事に気付いてワタシはきっと楽に成れたし、同時に或る"若さ"というものを失くしたのかも知れない…なんて思ったりもする。

 

自分にとって『エレファントマン』を観返す事は容易ではなく。
あの日以来、鑑賞していない。
リンチ作品であるか否かや、ストーリーの背景も(申し訳ない稚拙な表現に成るが)ワタシにはあまり関係無い。

 

 

その後20代後半に本州を放浪した際、九州高千穂の或る家に数宿数飯お世話になった時の話。

最後の夜だったか、元ヒッピーの奥様は笑顔で言われた。
"アナタはガンプの様な人だわ"


その時は"?"だったし、ワタシは突如の隕石落下発言には先ずは黙ってしまうタチだから…
でもずっと考えていた。納得出来ないなら、心の中では何と返したかったのか…?


"いいえ。
エレファントマンだと思います。"

だろうか…

 

 

そういえば…学生時代、国語の教科書に高村光太郎だったか或る詩に立ち止まった。
正確な記憶ではないかも知れないが、次の様な節だった気がする。

"ぼくの前に道は無い ぼくの後ろに道は出来る"

 

どうやら、我の"後ろに続いている道の向こうの方"には "エレファントマン" が静かに居る。

 

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『ロストリバー』〜底の方に在る町

何か一つの対象作品に向かい、私達は本当に真っ白な感覚で掴み取ることはなかなか… "言うは易し行うは難し"というもの。

どんな尺度をもって向かい合うか?

どんな比較で相違や引用に気付いて、はたまた教えや刺激を見つけるのか?

それは、一人一人が生きて来た過去の経験から染みついてしまった秤や、今現在の状況や体調にも依るのだろうー



ライアン・ゴスリングはワタシには今ひとつ鼻につく俳優だった。なんというか以前は気に入らなかったのだ。なんてこたあない、過去に短期間お付き合いした女性が彼の猛烈なファンだったのだ。

彼女はナルシスの塊みたいな人で私はとても振り回された苦い記憶が。別れてからトラウマ的にライアンの顔を観ると苦い気分となり、だから彼の出演作を避けてきた節があるのだと思う。

ライアンからしたら至極迷惑な話だろう。(笑)

然し少なくとも本作『ロストリバー』を観てからというもの、少なからずいずれ魅せてくれるだろう次回監督作品を期待してしまう立場へと変わったのだ。

勝手なもんだぜ!ワタシは言う。

「ライアン、やるじゃないか!」

 

 

作風がニコラス監督や他から影響大であろうが、他作品から韻を踏んでいようが、ワタシにはこの際関係ない。誰でも知るピカソだって自他作品の"模倣と解体の実験の連続"だったのは誰もが知る処だ。

完全なるオリジナル等、この世には或る意味では無いと思う。

先ず、そんな厳しい目で秤って観てしまえば、あらゆる映画も、絵画も、音楽も、つまらなくなってしまうではないか⁉︎  そう思ったりする。

皆、誰もが作品にオリジナリティを出そうと模索する中で、基礎も、骨格も、化粧も、全てがオリジナルな作品等は皆無だとワタシは思うのだ。

 

以前、敬愛するミュージシャンS.亜紀がインタビューに対し次の様な内容を話していたのをよく思い出す。

"一曲一曲の発想は時に暗闇でポッと灯りがつく様に、所謂降りて来る時もある。併し作品として仕上げてゆく段階は、地味な模索の連続で、自己嫌悪との葛藤みたいなもの。最後は帳尻合わせ的な処は多分にあるのです"と。

ワタシも創作に於いて暗闇に佇み、息がしにくい時期がこれまで何回かあった。だから、この言葉には多いに納得が出来たのだ。そして、かなり救われたのが事実だ。

 

映画のあらすじや細かい部分はレビューサイトで色んな方が書かれているから割愛。

唯、多くの人が前述に記した様な見方で、本作品に対して厳しく批判的な意見を書かれているのを読んだ時から、ではワタシは本作が何故に好きな一本に値し、何を其の"内側に視ているのか"を、観終えて数年自問して来た。(前置きが非常に長くなってしまった…。)

 

 

先ず、話の根底にある"失われゆく街"の描写。

どうやら本職の業者が実際に住居を解体していたり、実際にその地を離れてゆく一人の老人を出演させたり、リアルさを保って幾つかの描写が鋭く胸に刺さってきたのだった。

 

昔、ワタシは故郷を捨てた。

飛び出した際に捨てるつもりはなかったのだが、39年間離れたままなのだから結果そうなのだ。

後、いつしか実家は転居し、つまりはワタシには帰省する故郷は無い。

そして、その町の辺り一帯は圏央縦貫道のジャンクション建設によって、或る見方をすれば"人々が通り過ぎるだけの町"と化してしまった。

その地には空中を旋回する化け物の様な高速道ジャンクションを支える巨大な足、要はコンクリートの塊柱だけがそびえ立ち、辺りの景観との調和もへったくれも皆無な、それはそれは異様な風景と成っている。

現在も其処に暮らしている人達には申し訳ないが、所謂"死んだ街"といった表現が浮かんでしまうのだから…一言で言えば凄く寂しく、そして悲しい。

現在、時にその近くを通り過ぎる際に目に映る景色をなんと云えば良いのか…ズバリ、社会から置き去りにされ、何処か"忘れ去られた様な日陰の街"である。

 

そんな変わり果てた故郷を抱えた自分にとって、原風景みたいなモノはもうこの世の其の地には存在しない。あくまで胸の奥深い部屋にしまってある。

だからかな、本作前半は非常に目に沁みる映像であったのだと思う。


それともう一つ。

ワタシは当てもなく放浪したり、渓流竿を忍ばせてアチコチの川を遡ったりした時期があった。その中で、幾つものダム湖や溜池に出逢ってきた。

美しい天然湖(池)や観光ボート等で賑わう湖もあった。逆に臭気漂うダムもあれば、人も寄り付かない地図にも載らない様な場所に濁った水も在れば、一瞬目を疑うかの澄んだ水鏡の様な湖も在った。

 

その記憶の内で20数年前の旅の途中、G県の或る湖に架かる橋の上で私は立ちつくしていた。見下ろした景色に唖然となり言葉を失っていた。

 

その年は日照りが続く記録的な雨不足の天候で、川を堰き止めたダム湖の水位は極端に下がり湖底が丸々とハッキリと見えていた。

なんと其処(底)には村が見えていたのだ。

道があり、壊されなかった建造物が点在し、ニョキニョキと木の電柱が立っていた。

田んぼか畑だったのか、土地が段々に区切って形作られた跡があり、遠くには赤いポストらしき物まで見えた。

より低くなっている土地にだけ池の様に水が残り、強い日差しに照らされた水面がギラギラと輝いていた。

 

それを見た時…マァ今になっての表現になるが、一言で"怖かった"のだ。

複雑な気持ちに胸が詰まる様な…

想いが溢れそうで、ワタシは欄干越しに呆然としていたのを思い出す。

 

 


話戻してー

本作は映画の或る象徴として、湖の底に街が沈んでいた。

主人公の青年は一人小さなボートで真夜中の湖に漕ぎ出す。すると…

水面から突き出た死んでいる筈の街灯に次々と灯りが点く場面がある。

広く深い暗闇に、なんとも云えない灯りが点々と映し出される。

あっ…と思い固唾を呑んだ時、観ていてワタシは涙が出そうになった。

何故だったのか…

 


それはストーリー上で感銘を受けたからと云う訳ではなく…きっと、前述した"忘れ去られた街"…つまりは、自分の幼き日々や、過ぎて遠くに追いやってきた場所と時間を想ったのかも知れない。

其の既に届きはしない"過去という場所と時間"に、思わぬタイミングでポッ、ポッと灯りが照らされたーそんな気がしたのかも知れない。

 


 


干上がった湖に現れた村。

赤いポストや電柱。

もう誰も歩かない道。


変わり果てたワタシの故郷…しかし地名は変わらず、たしかに地図に載って其処に在る。

だが、今この時も高速道路で空中を走り行くドライバーの多くは足元の下、"底の方に在る町" を意識はしないだろう。

起伏の多いその町の、峠や丘の名前も知ることは無いだろう。

沢山の小さな山を抱えたその町に、今も流れる幾つもの川の名を知らないだろう。

 

避けていたライアンの初監督作品『ロストリバー』。

そんな想いからなのか…世間の評価等は全く意に介さず、ワタシには大切な映画の一本なのだと思っている。

 

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『ピアノ・レッスン』〜浜辺と廊下にチャリー・ワッツ

過去3回は鑑賞した作品。

どなたかが仰っていたー映画は自分にとってつまらない作品を数多く観るより、好きな作品を何回も見返す方が人生は豊かになるーたしかにそうかも知れない。
で最近、同監督の『パワー・オブ・ザ・ドッグ』を観た際に本作を思い出した。否、本作を撮った同監督だったから新作も観たのか…

 

鍵を握る役柄演じるハーヴェイ・カイテルは名画『タクシードライバー』の脇役を、学生時代に三鷹のオスカーで初見以来好きな俳優。だが、聾唖の主人公役であるH.ハンターの元来の容姿(特にお顔)がどうにも私的に苦手なタイプなもんだから、今一つならぬ今0.5って処か。

彼女の演技は導入から凛として素晴らしく、故に後半で泥土に黒鳥の如く倒れるシーンは圧巻であり、声を発しない設定だけに其の演技演出の静動の対比落差は素晴らしかった。

 

 

余談になるがー
最近は直ぐ対処しないと何につけ直ぐ忘れる…
そのくせ忘れた方が良いかも知れない事を、不図した隙間にまざまざと思い出したり…
あと、食卓の自分の席の横に古いガットギター(パートナーの父親形見)が立て掛けてあり時々数分奏でるのだけど、最近は以前の運指滑らかさには程遠い。だんだんチューニングさえ雑になってきている。
気付きながら直さない事を、時に我に還り虚くなる時がある。

諸々を、表面では"忙しいから仕方ないか"なんて自らに言い聞かせている。
総て歳のせいにしては駄目か…な?


又、話変わってー
Y県在住時に散々お世話になった鍼灸師は技を生かし、家族二世代でニュージーランドに移住された。知り合いのイラストレーターC丸氏はツテを頼りに移住した。
一時期、ワタシの脳裏には新天地としてこの舞台が浮かんでいた。何も知らないだけに。


"知らない"と云う事は或る意味で罪であったり、或る意味で美徳でもあろうしチカラにもなったりする。
"知らない"が赦される間(時期)に勇気に変えて行動すべし。下調べばかりして頭でっかちになっちゃいけない。そう、頭が重くなればなるほど、確かな初めの一歩は踏み出せない……それはワタシが振り返って強くそう思う、つまり学んだ事だ。

現代はインターネット検索が既に当たり前の行為となり、軽いタッチ幾つかで世界の果てから精神の底まで恰も判ったかに思いがちな恐ろしい時代だから…なかなか初めの一歩は難しくなろう。

 

しかし、つまずいたって死ななきゃいい。つまずくのは早ければ早いほど、又仕切り直してやり直せばいい。生きていれば出来る。
"タイミングやチャンスは自ら作るもの"ーそれも理。併し人生の時計はどんどん早くなるもの。
時間ばかりが過ぎ、もし開き直りの気構えは強まったとしても、肉体のバネは下降し、背負う物事は増えてゆく。
タイミングやチャンスのドアは、やたらには無いもの。そんなドアを何回か通り過ぎてしまうと、もうその廊下の先に並ぶ扉の鍵は手元には無かったりする。

扉さえ見つけられない場合もあるかも知れない。アルコールやドラッグに溺れたり、他人に依存ばかりして、きっと一つの暗い部屋に閉じこもっている様にみえた人も、もしかするとずっとずっと扉を探して独りで終わりの無い廊下を歩いていたのかも知れないなーなんて思ったりする。

…時間の廊下は戻れないしね。

 

 

ワタシにとってニュージーランドは、昔カレンダーやネットで見た風景写真の他には、本作で主人公の娘が流れ着いた海藻を手にバレエ風に踊る浜辺が脳裏に浮かぶ位なのだ。未だに良くは知らない地なのだ。
けれども、既にその浜辺から聴こえる本作の切ないピアノの調べは、きっと楽譜に並ぶ音符通りに近く、もしかすると懐メロ的な匂いすらしているのかも知れない…

 

ま、いずれにせよだ。鍵盤はからっきし苦手な自分には、今からピアノのレッスンは遅いに違いない。
足元の出来る事を一つ一つこなしてゆくしかない。本気でそう思う。
何故なら、鍵盤は一音づつしか叩けない自分だから。

何処からか"Time waits for no one"のチャーリーが叩くリムショットが聴こえる…

 

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